kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

寝る子は育つ。

2015-07-31 22:05:49 | kaeruの孫録

    夏休み、孫の話が出る時期で我が家でも、

   こんな格好で私のとなりに寝ていました。

   私が寝るときにはすっかり寝込んでいて暗かったのでメガネを

かけたままだとは気付きませんでした。本でも読みながら寝込ん

だのかと枕元を見ましたがそれらしい物はありません。

   多分遊び疲れてどたんQだったのでしょう。

   それにしてもこの足の格好が? です。

   もう少し小さい頃は、一晩中に必ず180度回転はしていたものです。

途中でとなりに寝ている者の腹に足を乗せたり手をぶつけたりしたも

のです。それはなくなったがその名残がこの格好に残っているのか、

又は夢のなかで走っているのか?

   いずれにしても寝る子は育つ、です。もう少し寝ているでしょう。


麻雀余話。

2015-07-30 21:29:41 | 葉山そして人

    麻雀の話です。先日の読売新聞に写真に撮られてしまった麻雀初心者

の背中がまた押されて、卓を囲んできました。

   80余歳のKさん「はじめてなの」と言って「葉山のぞみ会」岡田代表と

一緒に座っていました。実は今回は人数が揃わない、ということで一時

中止か、となったのです。

    麻雀の弱みは四人揃わなければダメというところなのです、その弱み

を強味に変えてしまうのがご婦人の強みです。予定を決める場で「天野

さん、来るわね」とまず念を押されてカウントされてしまい、そのあと

一名足りない、となって「やはりダメみたい」と代表の声。

   ところが5分も経たないうちに「やりますから」となりました。実は

代表の近くに先日の「富士山が見える庭」のご婦人(Fさん)が座っていた

のですが、「やったことがないけれどやってみようかしら」となったの

です。

    Fさんは来れなくなって「人生最初の体験」は後日になりましたが、

Fさんの先輩にあたるKさんが挑戦したわけです。80歳前後の人が初め

てのことに「やってみようかしら」で臨むというのは凄いと思います。

やはり周囲にそういう仲間がいて、挑戦している姿を見ているからで

しょう。

   「葉山のぞみ会」の「のぞみ」は「望み」であったのですが、合わせ

て「臨む」の実践でもあります。渡辺さんから「のぞみ会」のホーム

ページを作りましょう、と声がかかっています、これも挑戦でしょう。

 


この町の「戦後70年」。

2015-07-29 23:07:46 | 葉山そして人

    この写真は1945年8月29日の朝日新聞の紙面のもので、縮刷版からです。

    説明に「米軍わが本土に進駐  逗子沖に並ぶ艦隊」の見出で「相模灘に約六十隻  厚木飛行場に対する先遣部隊の着陣に先立って、二十七日以来相模湾に入った」と記されています。

    戦後70年を期して葉山町の戦後を振りかえってみようと有志で話し合いをはじめていましたが私の目にとまった記事を紹介してきたところです。

    こんな記事も目につきました。

    「葉山御用邸に不祥事」の見出し。「九日午後二時頃約五十人の米軍兵士がトラック三台、ジープ三台に分乗して葉山御用邸に侵入、御料品若干を持ち去った。これに対して我が方は厳重抗議した結果、聯合軍当局では同御用邸に憲兵の歩哨を配し、かかる事件の再発を防止すべく全力を尽す旨を言明した」(同縮刷版 9月11日)。


現代の「夜明け」。

2015-07-28 20:37:46 | せいじの政治カフェ

 「山が動いた!」

 というメールが届きました。そのままコピーしておきます。

 
 

天野 清司 さん

 新国立競技場の計画が白紙となりました。Change.orgのキャンペーンを通して8万人もの賛同者を集めた「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」の共同代表、日置圭子さんからのメッセージをご覧ください。

新国立競技場計画が財政、景観などの点から問題あることを知った11人が、2013年10月「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」を立ち上げました。「こんな次世代のツケになるような建物を建てさせるわけにはいかない」「神宮外苑の青い空と緑をまもり、想い出のつまった国立競技場を直して使いたい」そんな私たち市民の声を国政に届けたいという、やむにやまれぬ思いからでした。

キャンペーンを展開するにあたって、早速署名活動を始めましたが2000筆くらいからなかなか広がりません。そんなとき知ったのがChange.orgでした。キャンペーン立ち上げ作業は難しくはありませんでしたが、ネット署名にどれだけの効果があるのか、これをどう使いこなしたら私たちのメッセージがうまく伝わるのか正直試行錯誤でした。

しかし、11月末のキャンペーン開始以降、賛同署名は着実に増え、公開勉強会など様々な活動との相乗効果もあって、8ヶ月後にはなんと30000筆超の署名が集まったのです。Change.orgキャンペーンがなかったら不可能な数字。賛同の広がりをジワジワと実感できる、嬉しい展開でした。

その後、今年5月以降一気に情勢が動き、各種世論調査で計画見直し賛成が7~8割になるのと平行して、当会キャンペーンの署名数も4万、5万、8万とあれよあれよという間に増え、驚きと共にまさに「山が動いた!」と思った瞬間でした7月17日、遂に安倍首相が計画の白紙撤回を表明したのです。

この白紙撤回には国民の批判が大きな力になりましたが、2年弱積み上げてきたChange.orgを通じての声が国に届き、計画変更に貢献したことは確かです。私たち自身、途中、旧国立競技場が解体されてしまったときは正直「もうだめかな」と挫折感も味わいました。しかし、それでもめげずに正しいと信じることを訴え続けていくことで、動かないと思った山が動くことも経験しました。

今後どんな競技場ができるかはまだ不透明ですので手放しで喜ぶわけにはいきません。当会は「真に国民に望まれる競技場」になることを見届けるまで、85000人のご賛同の声を支えに活動を続けてまいります。

神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会
共同代表 日置圭子

 

   私も街頭署名をやってきました。その結果をビラなどにして同じ場所で報告を兼ねて

宣伝配分をしました。しかし署名をしてくれた一人一人に報告することはできません。

   今回インターネット署名の効果を直に学びました。

   今、島崎藤村の『夜明け前』を読み出しているところです、この作品で最初に年月が

出てくるのは「文政九年」の街道の景です。

「文政九年の十二月に、黒川村の百姓が牢舎(ろうや)御免ということで、美濃境まで追放を命じられたこともある。(略)二十二人共に腰縄手錠であった。」

  文政九年は1826年です、約200年前の「すべて山の中の」木曽路に伝わってくる時代

の変わり目を島崎藤村が父親の青山半蔵の姿を通してえがいていきます。

   時代の変化を促進したいと念願する当時の青年たちにとって、それは大変な難事業で

した。200年の歳月と多くの試行錯誤とつまづきと犠牲のうえに、現代の到達がありま

す。このメールの語っていることもそのひとつと思います。


株価とともに……。

2015-07-27 20:14:27 | せいじの政治カフェ

幾日か前の「しんぶん赤旗」で、世論調査の結果を報じています。

「共同通信社」が支持37.7%   不支持51.6%

「毎日新聞」        支持35%       不支持51%

   今日メールに入った話です。

今日の日経平均が194円安の大幅続落、日本経済新聞は「内閣支持率低下も重荷に」と次のように報じています。

    27日付朝刊「内閣支持率が6月の前回調査から9ポイント低下の38%、不支持率10ポイント上昇の50%だった」「政権が掲げる経済政策が実行しづらくなったとの連想が働き、心理面での重荷になった」と。

   安倍政権の看板アベノミクスを支えてきたただひとつとも言える株価高。公的年金資金の注入や日銀の財政政策をろうしての操作的な株価高もつまずき出したようです。

   政治的な危機状況が経済的な危機の広がりとなり、それがいっそう安倍政権を追い詰める世論の広がりとなります。

    

   


富士山の見える庭。

2015-07-26 21:10:25 | 葉山そして人

    昨日と今日、葉山町と横須賀市の境近くにある家の庭に草取りをしてきました。この頼まれ仕事は昨年からの持ち越しになっていたもので、その頃私の身近な人に不幸があり時間が取れぬままになってしまっていました。

    先日たまたまお会いする機会があり、失礼していますとお詫びしましたところ、都合がつくなら来てほしいとのことで伺ったのでした。

    庭そのものは小さいのですが、目の前が相模湾で、富士山はすこし右手でしょうか、とたずねると指を真っ直ぐ指されて、今は見えないけれどここなのと絵の一ヶ所を指すかのように示します。

    陽射しのなかに広がる海はその水蒸気で遠くは霞んでいます、釣り船やらヨットなどを浮かべている陸近くは視界に入りますが、富士山どころか彼方の陸地など影さえ見えません。

    ここが亡夫の里であったので東京から移り住んで半世紀近くになるとかの話を聞きながらの作業でしたが陽射しのなかでも風がありそれほど汗だくになることもありませんでした。

    それは昨日の午前中のことで、今日の昼前は風なし陽射しありで麦わら帽子を何回か脱ぎ汗を拭きつつ、途中から出てきた黒い老犬が涼しさを求めうろうろしているのをお尻に感じながら作業。

    それでも周りの木の枝葉が揺らぐ気配に、風が出てきたようね、とアイスクリームをさしだしてくれながら声をかけてくれます。確かに前日までのようではありませんが首筋が楽に感じます。

    黒犬は庭の隅の日蔭に横になって腹を動かしています、いつもは上の娘さん夫婦の部屋に居るのだそうですが、何時もは女主人しかいない庭が普段と違うので下りてきたのかも知れません。

    犬のほか猫が二匹、これは外には出てこないそうでガラス越しに見つめています。朝は庭に出してある鉄製のテーブルにパンくずを広げてやると雀が集ってきて、カラスもトンビもやってくるのだそうです。

    リスは? 来ないとのこと。裏は山ですからいないことはないでしょうが、周りに大きな木がないし、見渡せば電線もありません、リスからみると未知の場所になっているのかも知れません。

   料金を頂きながら私の未知の場所木曽路への交通費を計算しておかなければ思いつつ帰って来ました。

    


木曽路はすべて海のなかである。

2015-07-25 20:14:10 | ブログ仲間

    島崎藤村の『夜明け前』を読みかけたままでした。書き出し「木曽路

はすべて山の中である」を読んだ記憶があるからと言ってこの本を読み

出したことにはならないのは当然です。この部分はいたるところで引用さ

れているのですから。

    手元にあるのは新潮文庫の平成5年刷で文字が小さい版です、上下各二冊

の四冊揃っているということは20年ほど前に何か読んでみたくなったので

しょう、そしてすこし読み出してやめてます。

    もしその時この本の30ページ過ぎまで読んできていたら読み続けていたで

しょう。33ページにこういう下りがあります。

【木曽谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦の方から移って来た青山監物(けんもつ)の第二子だった】

   さらに100ページには、

ある旅人が妻籠の本陣に泊まった時、その家の家紋が自分の家の家紋と同じ

だという話から、

【ここの本陣の先祖に相州の三浦から来たものはないかと尋ねる。答は、その通り。その先祖は青山監物とは言わなかったか、とまた客が尋ねる。正にその通り。その時、客は思わず膝を打って、さてさて世には不思議なこともあればあるものだという。】

    この人は相州三浦、横須賀在、公郷(くごう)村    山上七郎左衛門という人。

このことが縁になって小説の主人公で作者島崎藤村の父にあたる青山半蔵と

その義兄の青山寿平次が江戸を訪ね公郷村への旅をすることになります。

    半蔵の旅の目的には平田学の門下に入ることもありました。


    昨日から読み出して、安政三年十月(1856年11月)150年ほど前、いうならば

わが人生の来し方を往復したくらいの昔、ここ葉山から歩いても一万四千歩位

の横須賀市公郷に立った半蔵の姿を思う。

【相州三浦の公郷村まで動いたことは、半蔵に取って黒船上陸の地点に近いところまで動いてきたことであった。 】

【江戸から踏んで来た松並樹の続いた砂の多い街道は、三年前丑年の六月に亜米利加のペリイが初めての着船を伝えた頃、早飛脚の織るように往来したところだ。当時木曽路を通過した尾張藩の家中、続いて彦根の家中などがおびただしい同勢で山の上を急いだのも、この海岸一帯の持場々々を堅めるため、あるいは浦賀の現場へ駆けつけるためであったのだ。】

  『夜明け前』の第一部第三章まで読んできて、浦賀での黒船騒ぎが木曽路の

往還を慌ただしくし、二十歳を二つほどこえた半蔵に木曽路の山を超えた世界

に目を向けさせていた。その半蔵がその元になった「海」を見たのです。

   それを受けて、敢えてkaeru流にタイトルを「木曽路はすべて海のなかである」

としました。さらに第二章で安政の大地震時の木曽の様子が分かりますが、これ

らも海底深い地中に震源があり、それもあわせてのタイトルと意となりましょう。

その場合、「木曽路はすべて島国のなかである」との意味にもなります。

 

   その木曽路を旅するまで二ヶ月を切りました、今回読み直そうと思って意外な

面白さを見いだし得たことを「ブログ仲間」に感謝します。旅に立つ日までには

読み終えたいと思います。


友あり、近間に集う。

2015-07-24 22:35:06 | 健康・からだ

    元の仕事を一緒にやっていた仲間で納涼を口

実の飲み会、誘いがかかれば飲めないと言えど

その分お喋りに口を回してきました。

    こちらが喋っているあいだ、呑み助は杯を重

ねて会費にプラス千円、喋り得でまさに口には

税金も料金もかかりませんでした。

    そういうことで口を使いすぎて呟く余力があ

りません、今夜はおやすみなさい。


「てんがらもん176回」笑う門には……。

2015-07-23 22:24:17 | 「てんがらもんラジオ」

   今回、村永さんが言ってくれました、「今日の感想は簡単でしょ、

分からないのだから」と。そうなんです、まったく分からないのです。

いや、ゲストの池上さんの最初の一言「みなさん…」この後はまるで

ダメ、ただこの一言で池上さんは私にも向かって話しかけているのだ、

と分かったのです。それは鹿児島弁の普及のためにNPO法人を立ち上

げ活躍されている池上さんらしい一言でした。

    それは池上さんだけでなく、お国言葉で夢中になり笑って盛り上が

る四人ともお互いを通して心を開いての会話になっていたのではない

でしょうか。それでなければ全く意味がとれないあの会話を視聴しな

がらこんなに楽しく時間が経つはずがありません。

 

   私も耳が悪くなり、数人でいる場で笑い会う会話からいつの間にか

外れていることがあります。それは意味が聞き取れないところから

自然と気持ちも外れたのかと思っていましたが、必ずしもそれだけ

ではないようです。そんなことを四人の笑い声のなかから感じたの

です。笑い声には方言はない、国境もない、人間共通の気持ちの表

現ではないでしょうか。

   そんな笑いを力にお国言葉の普及の努力をされている鹿児島の人々

の和と輪は心の垣根を無くしてくれるでしょう。

    わらう門には福きたる、そして「笑う門には垣根なし」を付け加え

たいと思います。


人生いろいろ。

2015-07-22 17:36:08 | 葉山そして人

   読売新聞の15日付に出てたよ、とわざわざ新聞を買って持ってきてくれました。

「地域でつながる福祉を目指して」との見出しの記事をそのまま紹介します。

【葉山町  堀内町民いこいの家で6月24日、地域の福祉を考える「のぞみ会」の定

例会が開かれた。1987年に設立され、30年近く続いている。発起人の一人、渡辺

圭子さん(84)は、「親を見送り、自分たちの老後を考え、地域でつながる福祉を目

指しました」と経緯を語る。

    この日は午前10時過ぎ、音楽療法士のギターに合わせて歌う活動から始まった。

歌は2年前から取り入れ、童謡や歌謡曲など十数曲を振り付けを交えて熱唱した。

   昼食は、会場で炊いたご飯とメンバーが持ち寄ったおかずが食卓に並ぶ。家庭菜

園の青菜のごまあえを持参した窪田寿栄子さんは「みんなで食べるからおいしい」

と目を細めた。

    午後は健康マージャンタイム。今年から始めた脳トレだ。代表の岡田圭子さん

(83)は「若い世代にも参加してほしい。知恵や意見を出して支え合い、つながって

いきたい」と話している。】

    〔解説〕とは大袈裟ですが、マージャンをやっているのが私です。

「人生いろいろ」とはまずこのことで、人生78年にしてこの日二回目の

マージャン、どう見ても手つきがおぼつかないでしょう。ところが赤い

服のご婦人も同じ二回目なのです。手つきでは年期が入っているかどう

かはわからないものだという証です。

    「人生いろいろ」のもう一つは、私の前のご婦人が代表の岡田さん、

岡田さんとは20年前後の知り合いでしたが、マージャンがこんなに上手

いとは、やっていることさえ知りませんでした。

   今日は「いこいの家」が休館でしたので近くのレストランで昼食会、

歌あり、おしゃべりあり、美味いものありでした。会の締めの挨拶で、

渡辺さんが再来年の30周年に向けて、地域の福祉を若い世代と一緒に

本格的に取り組もう、と抱負を述べました。