島崎藤村の『夜明け前』を読みかけたままでした。書き出し「木曽路
はすべて山の中である」を読んだ記憶があるからと言ってこの本を読み
出したことにはならないのは当然です。この部分はいたるところで引用さ
れているのですから。
手元にあるのは新潮文庫の平成5年刷で文字が小さい版です、上下各二冊
の四冊揃っているということは20年ほど前に何か読んでみたくなったので
しょう、そしてすこし読み出してやめてます。
もしその時この本の30ページ過ぎまで読んできていたら読み続けていたで
しょう。33ページにこういう下りがあります。
【木曽谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦の方から移って来た青山監物(けんもつ)の第二子だった】
さらに100ページには、
ある旅人が妻籠の本陣に泊まった時、その家の家紋が自分の家の家紋と同じ
だという話から、
【ここの本陣の先祖に相州の三浦から来たものはないかと尋ねる。答は、その通り。その先祖は青山監物とは言わなかったか、とまた客が尋ねる。正にその通り。その時、客は思わず膝を打って、さてさて世には不思議なこともあればあるものだという。】
この人は相州三浦、横須賀在、公郷(くごう)村 山上七郎左衛門という人。
このことが縁になって小説の主人公で作者島崎藤村の父にあたる青山半蔵と
その義兄の青山寿平次が江戸を訪ね公郷村への旅をすることになります。
半蔵の旅の目的には平田学の門下に入ることもありました。
昨日から読み出して、安政三年十月(1856年11月)150年ほど前、いうならば
わが人生の来し方を往復したくらいの昔、ここ葉山から歩いても一万四千歩位
の横須賀市公郷に立った半蔵の姿を思う。
【相州三浦の公郷村まで動いたことは、半蔵に取って黒船上陸の地点に近いところまで動いてきたことであった。 】
【江戸から踏んで来た松並樹の続いた砂の多い街道は、三年前丑年の六月に亜米利加のペリイが初めての着船を伝えた頃、早飛脚の織るように往来したところだ。当時木曽路を通過した尾張藩の家中、続いて彦根の家中などがおびただしい同勢で山の上を急いだのも、この海岸一帯の持場々々を堅めるため、あるいは浦賀の現場へ駆けつけるためであったのだ。】
『夜明け前』の第一部第三章まで読んできて、浦賀での黒船騒ぎが木曽路の
往還を慌ただしくし、二十歳を二つほどこえた半蔵に木曽路の山を超えた世界
に目を向けさせていた。その半蔵がその元になった「海」を見たのです。
それを受けて、敢えてkaeru流にタイトルを「木曽路はすべて海のなかである」
としました。さらに第二章で安政の大地震時の木曽の様子が分かりますが、これ
らも海底深い地中に震源があり、それもあわせてのタイトルと意となりましょう。
その場合、「木曽路はすべて島国のなかである」との意味にもなります。
その木曽路を旅するまで二ヶ月を切りました、今回読み直そうと思って意外な
面白さを見いだし得たことを「ブログ仲間」に感謝します。旅に立つ日までには
読み終えたいと思います。