kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

言葉、連帯のために。

2018-05-31 20:19:33 | 「てんがらもんラジオ」

「てんがらもんラジオ」323回のゲスト・植村紀子さんです。

植村さんの鹿児島弁への思いは自著の『鹿児島ことばあそび』に引用されている詩人谷川俊太郎の次の言葉で知ることができます。

「掘り出されたばかりの  さつまいもみたいに  無骨だが、焼きたてのさつまいもみたいに  おいしい  ことばたち、懐かしい声が  ひそんでいる、 昔からの暮らしの匂いがよみがえる」

番組は、http://www.ustream.tv/recorded/115297344  

番組を視聴しながら頻(しき)り頭に響いてくるのが長渕剛の歌なのです。昨日フェイスブックにあった、

特に「10代の若いやつらのエネルギーは強烈。若い連中に俺の中の10代の魂でぶつかっていって、未来を託したい」は私に響きます。

先ほど長渕剛の「ようこそ先輩 課外事業」を観ました。

 http://youtu.be/-dQpLAJDeTY

このなかで長渕が後輩の高校生に2008年の「秋葉原連続殺傷事件」について問いかけます。返ってきた返事に長渕は「なぜ、犯人をおさえよう!先輩一緒に❗️という者がいないのだ!」と。

そして黒板に「観念=屁理屈」そして観念に対する言葉として「実践」と記し「感じること」と書きます。

この「観念=屁理屈」と「実践、感じること」に、方言についての植村さんと前迫さんの話が重なってきます。番組のなかで方言が見直しされてきている、と言われました。思うに、方言だけでなく言葉そのものへの見直しが必要ではないでしょうか。そう痛感するのは昨今の国会での質疑応答を通じてです、事実を誤魔化し、屁理屈を言い繕うための道具に化した言葉の連続。

それに対しては長渕が後輩と共に作り上げる歌のテーマ・「叫び」に言葉の本質的な役割を感じます。もし母親が子供の池に落ちたことを知れば、池に向かって走りながら「誰か、助けて!」と叫びます。言葉は多分、このような叫びにその根源があるのでしょう。

長渕は後輩39人全員の「叫び」を書き表し、そこから歌「卒業」をつくり、全校生の前で合唱したのです。長渕の言葉「連帯感」そのものを歌声として聴かせてくれました。

いま、連帯を生みだす言葉、連帯を裏切らぬ言葉を生みだすのは、言葉に多くの責任を負っている、放送やブログなどSNSに関わる者の共通の課題だと思います。


雨漏り、水漏れ。

2018-05-28 23:53:24 | 「てんがらもんラジオ」

今回の「てんがらもんラジオ」は女性の郷土史家・永留さんから「西郷どん」のなかでの3人の妻の話でした。西郷隆盛の最初の妻は親同士が決めたそうです、2人目は相思相愛から3人目は紹介婚とも言える縁です。私はこの三回の結婚の話と合わせ、坂本竜馬とその妻の話に引かれました。

新婚当時の西郷家に泊まった竜馬が、夫婦の会話に聞き耳を立てる話がありました。新妻が家の雨漏りが気になると言うと、夫・吉之助は「日本中に雨漏りがしている時期に……」自分の家のことにかまけているわけにはいかない、と。

西郷と竜馬との信頼関係は対幕府とか薩長同盟とかの核心をつくるものですが、そこには各々の生活レベルで知りあう、共鳴しあう面が大きかったと思えます。その意味で西郷が愛加那と別れ一人で生活している時、龍馬が再婚をすすめるのですが、永留さんは当時は独身の男は一人前として見てもらえなかったのでしょう、と話されました。

思い出したのは50年ほど前のこと、当時金融機関が融資をする相手が独身であると警戒したということです。事業者としてある程度の年齢で独り者ということは、一人前と見られなかったのです。

いま、統計的に見ても身の回りにも男女問わずかなりの年齢での独り者の多いこと。自分の甥姪のことも含めて、彼らのことを思うと気持ちが不安になります。150年前、日本中が雨漏りしていました。現在、日本人の生活という器に穴があきヒビが入り命という水が漏れていきます。

話が飛びますが映画監督の山田洋次さんは「男はつらいよ」から「家族はつらいよ」シリーズへ、第三作目は「妻よ薔薇のように」です。監督はこの映画を紹介しながら「今、家族はみな崖っぷちに立っているのです」と。さらに「『男はつらいよ』の頃はスタッフは社員で終身雇用でした。今はみんなフリーで保障がない。」と。

我が家の「薔薇」が買い物帰りに階段から落ち手を痛めて、鍵を開けられないと……。手を冷やすため何十年ぶりかで氷枕を出し、手当の真似事をしました。

        老いの手を冷やす手当の暖かく   kaeru