「てんがらもんラジオ」323回のゲスト・植村紀子さんです。
植村さんの鹿児島弁への思いは自著の『鹿児島ことばあそび』に引用されている詩人谷川俊太郎の次の言葉で知ることができます。
「掘り出されたばかりの さつまいもみたいに 無骨だが、焼きたてのさつまいもみたいに おいしい ことばたち、懐かしい声が ひそんでいる、 昔からの暮らしの匂いがよみがえる」
番組は、http://www.ustream.tv/recorded/115297344
番組を視聴しながら頻(しき)り頭に響いてくるのが長渕剛の歌なのです。昨日フェイスブックにあった、
特に「10代の若いやつらのエネルギーは強烈。若い連中に俺の中の10代の魂でぶつかっていって、未来を託したい」は私に響きます。
先ほど長渕剛の「ようこそ先輩 課外事業」を観ました。
このなかで長渕が後輩の高校生に2008年の「秋葉原連続殺傷事件」について問いかけます。返ってきた返事に長渕は「なぜ、犯人をおさえよう!先輩一緒に❗️という者がいないのだ!」と。
そして黒板に「観念=屁理屈」そして観念に対する言葉として「実践」と記し「感じること」と書きます。
この「観念=屁理屈」と「実践、感じること」に、方言についての植村さんと前迫さんの話が重なってきます。番組のなかで方言が見直しされてきている、と言われました。思うに、方言だけでなく言葉そのものへの見直しが必要ではないでしょうか。そう痛感するのは昨今の国会での質疑応答を通じてです、事実を誤魔化し、屁理屈を言い繕うための道具に化した言葉の連続。
それに対しては長渕が後輩と共に作り上げる歌のテーマ・「叫び」に言葉の本質的な役割を感じます。もし母親が子供の池に落ちたことを知れば、池に向かって走りながら「誰か、助けて!」と叫びます。言葉は多分、このような叫びにその根源があるのでしょう。
長渕は後輩39人全員の「叫び」を書き表し、そこから歌「卒業」をつくり、全校生の前で合唱したのです。長渕の言葉「連帯感」そのものを歌声として聴かせてくれました。
いま、連帯を生みだす言葉、連帯を裏切らぬ言葉を生みだすのは、言葉に多くの責任を負っている、放送やブログなどSNSに関わる者の共通の課題だと思います。