洒とは注ぐの意、蛙(あ)は蛙(かえる)。
「蛙に小便でいけしゃあしゃあ」 とは、あつかましく平気でいる
さまをいう、まさに洒蛙洒蛙だ。
【この3行からはじめる本文こそ、30日の分。「俄か庭師のこと」は31日の
分】……そんなことはどうでもいいが。
まず、google検索 「洒蛙」 で、福沢諭吉全集に 「意気揚々顔色洒蛙々々
として恥ぢざる者あり」 等あるを知り、中里介山の 『大菩薩峠』 には 「いけ
図々しい男」 が 「洒蛙洒蛙として二階へ~」 と使われていることを知った。
手元にある「漢和辞典」 には 「洒蛙洒蛙」 は熟語として出てこないが、『新
潮日本語漢字辞典』には出ている。 「日本語としての漢字」 を知るための辞
典としての特長がうなづける。
ところが、「しゃあしゃあ」を「洒蛙洒蛙」 と書いたり、「めでたい」を「芽(目)出
度い」 と書くなどを 「(このような)あて字はいかにもでたらめに漢字をあてた
~」 ものとして 「いずれもかなで書くべき」 という論がある。
しかし、kaeruとしては、洒蛙洒蛙は気に入った、いかにも蛙が小便の出口を
見あげて平然としている景だし、芽出度いの芽・目もいい。この辺の感覚は
「畢竟人間も自然の一部であることを忘れてはいない」 感覚だ。