芭蕉は 「おくのおそ道」 の中で「恋」にかんする事柄を三か所で述べて
いると上野洋三さんんは 『芭蕉自筆 「奥の細道」の謎』 で書かれてい
ます。
そのキーワードは「契り」。 (文中の太字はkaeru)
まず、「末の松山」 の段、こう書かれています。
≪末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし
枝を連ねる契りの末も、つひ(終)にかくのごときと、悲しさもまさりて、(略)≫
解釈<有名な末の松山は、寺を建てて末松山(まつしょうざん)といっている。
松の木立の間々なみな墓原で、「末の松山波も越えなむ」と誓いあった比翼
連理の契りの果ても、ついにはみなこのように墓石と化してしまうのかと思え
ば、懐古の念の上に無常の想い加わり、悲しみの情もひとしおまさって(略)>
ここに 「恋」の成就も、最も悲観的な観念で、まず第1に提示されている、
との上野さんの指摘です。
第二は、「象潟」 です。この段には
象潟や雨に西施がねぶの花 をはじめ五句が詠われています。
その五句目が詞 「岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る」を付け、
波越えぬ契りありてや雎鳩の巣 曽良
<雎鳩は夫婦仲のよいものとされており、また男女の堅い契りを「末の松
山波越さじとは」と詠んだ古歌もあるが、文字通り波の越えてこない約束
があってのことか、ああして危ない岩の上に雎鳩が巣をかけている。>
末の松山では「契りの全否定=死(墓)」であったが、雎鳩の巣に託して
「危ない岩の上にありながらもかろうじてふみとどまるところに、(契りは)
認め直されている。」とは上野さんの述べているところです。
そして、第3が市振の段です。
象潟から市振の間に越後路が入っています。越後路と市振の段を結ぶの
が次の二句です。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
「おくのほそ道」を「恋」をテーマにして読むと、この二句と市振の段は大変
魅力的です。上野さんは芭蕉自筆の「奥の細道」1万641字を総点検しつ
つ読み解いていった方ですが、この市振の段について芭蕉が抱いたであろ
う思いをこんな風に書かれています。
≪芭蕉は、第二十三丁(市振の段の前=越後路)までを総点検した段階で、
(略)「末の松山」と「象潟」とが連結して作りなす「契り」の意味、「恋」のあり
方がまだ十二分に描き尽くされていないと感じた。
前者は墓地を眼前にしての悲観的な「恋」の行く末であったし、後者は鳥
に仮託しての比喩的な「恋」の幻であった。これらには、「恋」本来あるべき、
現在(うつしみ)の人の「契り」の問題がなお映し出されていない。≫
肉声が聞え体臭や息づかいを感じさせる「恋」が描かれていない、とも。
≪生き生きとした人の恋のテーマを、ひとつの作品の形態を壊すことなく、
旅の記のなかにあてはめる。≫そのために第二十四丁(市振の段)は新た
に補われたものではなかったか、と提示して紀行文の伝統として「遊女」は
格好な登場人物であった、としています。
遊女の口を通じて語られる「定めなき契」こそ芭蕉の「恋」のテーマを最
もよく示していると上野さんは述べ、≪末の松山→象潟→市振と重ね合わ
せることによって、遊女の悲惨な契りは、通俗的道徳によって唾棄されるこ
となく、存分に同情において眺められることがわかる。≫として、≪伊勢参
宮を前提として語られることによって、それは神前に立とうとするものの懺
悔に洗われていることが分かる。≫、さらに
≪「定めなき契」――量的に甚大な契りのもつ不道徳の罪や、不安定な
生活のもたらす悲しみ、それらのことも、そこを通って初めて得る君たち
自身の懺悔によって、神明の真実に進み入る足がかりになったではな
いか。もう十分に浄化されているのだよ。芭蕉はそう語りかけつつ、「遊
女」を描いている。≫
こうして上野さんの言葉を書きうつしつつ感じるのは、上野さんが芭蕉
の手になった「奥の細道」の一字一字、手漉き和紙の一枚一枚、芭蕉が
貼った和紙を透かし見たりはがしたりする作業を通じて、明らかに芭蕉の
声を聞いたに違いないと思います。それが≪芭蕉はそう語りかけつつ≫
になったのでしょう。
一夜が明けて宿を出ようとする芭蕉に「遊女」たちは旅の不安を訴えて
後からついていかせて下さいと哀願するに、これを断り 「神明の加護、必
(かならず)つゝがなかるべし」と言います。この芭蕉による保証は自ずか
らなるもので、「あはれさ、しばらくやまざりけらし」という憐憫の眼差しに
見まもられつつ「遊女」を参宮の成就へと導いていったことでしょう。