今日の「しんぶん赤旗」の読書ページです、
雑誌一冊を含んで21冊が紹介されていますが、そのなかにこの2冊、
内容というより紹介文の見出し、
『いま二センチ 永田紅歌集』 の「いま」と
『今、「資本論」をともに読む』 の「今」です。
この二つについて、各々紹介文中の関わる部分です、
.
少し言葉を足したいところがありますが、明日文字写しをして補足したいと思います。
今日の「しんぶん赤旗」の読書ページです、
雑誌一冊を含んで21冊が紹介されていますが、そのなかにこの2冊、
内容というより紹介文の見出し、
『いま二センチ 永田紅歌集』 の「いま」と
『今、「資本論」をともに読む』 の「今」です。
この二つについて、各々紹介文中の関わる部分です、
.
少し言葉を足したいところがありますが、明日文字写しをして補足したいと思います。
『戦争と平和』同じ岩波文庫ですが、訳者が違い「新訳」とカバーの折込に書かれていました。字が大きく読みやすい、読み比べて見て「あれ?」となったのがここ、
旧訳で「千八百五年六月」が、新訳では「七月」になっているのです。
「あれ?」と思いつつ読み進めていましたら「ロシアの暦」についての解説がありました、
トルストイは「6月」と書いていたのです、その違う訳が分かりました。
文字写しをしておきます。
ロシアの暦
モスクワを前にして、ロシア、フランス両軍が激突したボロジノ戦は一八一二年八月二十六日のことです。ところが、トルストイが引用している、 会戦前日のナポレオンの作戦命令書の日付は九月六日です。これは誤植でも、作者の勘違いでもありません。当時、ロシアとフランスは別の暦を使っていたからなのです。
当時ロシアではユリウス暦(ユリウス・カエサル〔ジュリアス・シーザー〕が制定した古い太陽暦)が使われていました。しかし、このユリウス暦は閏年の置き方が多すぎて、四百年に三日の誤差が出てしまうので、一五八二年にローマ法王グレゴリウス十三世が新しい暦法を制定しました。これはユリウス暦と同じ太陽暦で、四百年に百回だった閏年を九十七回に減らしただけですが、おかげで季節とのずれはほとんどなくなりました。カトリック教国では十六世紀から、新教国でも十七世紀から、このグレゴリウス暦が使われるようになりました。現在日本で使われているのもこの暦です。
ところが、ロシア正教会は伝統に固執し、ロシアの国全体もユリウス暦を使いつづけました。グレゴリウス暦を採用したのは、大革命後の一九一八年のことです。それまでのロシアのカレンダーはユリウス暦だったのです。 『戦争と平和』の中の日付も当然、フランス側の文書など以外は、ユリウス暦に従っています。 地球の運行とほとんど誤差のないグレゴリウス暦に比べ、ユリウス暦は十九世紀には十二日遅れ、二十世紀、二十一世紀には十三日遅れですから、一八一二年のロシアの八月二十五日はフランスの九月六日なのです。
この後に、
ちなみに、ロシア正教会は今でもユリウス暦を使っていて、すべての行事がその日付で行われます。ロシアに住んだら、クリスマスを十二月二十五日と一月七日に二度やり、新年を一月一日と十四日に祝い、三週間遊びつづけることも不可能ではありません。
と書かれています。ロシア正教のカレンダーについては、
『プロメテウス』を「歴史的伝記小説」と、著者のガリーナ・セレブリャコワ*が呼んでいるのは、この小説が歴史小説(一般的な史実を背景にした小説)と伝記小説(個人の一生の事績の記録小説)をかねあわせた小説という意味だと、訳者の西本昭治氏が「解説」で述べています。
私の本棚には、
こんな風に16冊が並んでいますが、いま全巻を並べると、
こうなるようです。
なぜ『プロメテウス』と名付けられたか、「プロメテウス」とは何者か。それについては、
プロメテウスとはギリシア神話の英雄の名である。大神ゼウスを欺き火をぬすんで人類に与えたために、怒ったゼウスは彼をカウカソス山上の巨岩に縛りつけ、その肝臓を毎日鷲に食わせた。しかしプロメテウスの肝臓は、食われるあとから新しく再生した。プロメテウスはゼウスの王位の安泰に関する秘密を知っていたのだから、もしゼウスに対する反抗をやめ、ゼウスに服従する気になり、その秘密をゼウスにもらしてやりさえすれば、いつでもこの責苦からのがれることができるはずだった。しかしプロメテウスは、自分の正義を知るがゆえに、また来たるべき解放を知るがゆえに、そうしなかった。
このプロメテウスの形象は、不当な苦痛に堪える不屈さ、あるいは圧制者に対する反抗の象徴として、また人類の先駆者として一身を犠牲にしてまでも人類に奉仕し、幸福をもたらすためにたたかう者の姿としてとらえることができよう。ギリシア三大悲劇詩人の第一人者アイスキュロス(前五二五〜四五六)に『縛られたプロメテウス』という作品がある。この作品は、このプロメテウスの形象を芸術的に定着させた壮大な作品であるが、フリードリヒ・エンゲルスと協力して科学的社会主義=共産主義をきずきあげたカール・マルクスは、この作品に深く傾倒し、本書(第三分冊)にも引用されているとおり、その学位論文 『デモクリストとエピクロスの自然哲学の差異』の序文は、「プロメテウスは哲学の歴史におけるもっとも高貴な聖者であり殉教者である」ということばで結ばれている。マルクスがこのプロメテウスを人類の敵とたたかう化身とみなし、このような人間になろうと努力したことは、若き日の右の論文からみてとれるのであり、また事実マルクスは、プロメテウスになったのである。
『プロメテウス』の表紙には、
この絵はこちらを写したものです、
この絵へのコメント、「リス」は絵の左上の隅に描かれています、
さてレンヘンとタッシーについてです、これも『プロメテウス』の訳註を記しておきます。
レンヘン
へレーネ・デームート(1820〜90)。マルクス家の家政婦。カール・マルクス死後は、エンゲルスの家政婦。愛称レンヘン、ニム、または二ミー。
タッシー
エリナ〔エレアーノル〕・マルクス=エーヴリング(1855〜98)。愛称タッシー。カール・マルクスの末娘。1884年以後エドワード・エーヴリング(1851〜98)の妻。イギリスならびに国際労働運動で活動。(エレアーノルはドイツ語読み、エリナは英語読み。)
昨日はマルクスの最後の姿を記しました、今日はエンゲルスの終焉の時を、
エンゲルスは、自分が一生をささげ尽くした世界の人びとの、未来に思いをめぐらして憩いながら、彼らの強力な闘争と勝利の行進を心にえがいた。革命、自然力のなかでもっとも強力な自然力、思想・意志・闘争の自然力が、 どっさりのものを掃きのけながら、世界を改造しつつあった。 不幸な人びとが幸福になりつつあり、 よろこびが凱旋のらっぱのように鳴りひびいていた。
ときおり苦痛が意識を鈍らせたが、しかしエンゲルスは苦痛に屈せず、抵抗した。 彼の苦しみをやわらげるために医師たちは麻酔剤を用いたが、うとうととまどろみながらもエンゲルスは思考することをやめなかった。ゲーテのことばが思いだされた。
財を失うこと――これはいくらかを失うことだ。
名誉を失うこと――これはおおいに失うことだ。
勇気を失うこと――これはすべてを失うこと
生涯エンゲルスは恐れを知らず、そのような人として自分の最期を迎えた。
一八九五年八月五日、午後十時三十分、 エンゲルスは、枕べにきらめくろうそくの光を最後に見た。時計がうつろに、冷ややかに彼の生涯の最後の瞬間を測った。エンゲルスの目のなかでぱっと火が燃えあがり、その目は永久にとざされた。短いほの白い夜がすぎた。東から、赤紫の、燃えさかり万物を照らす、太陽がのぼった。
一九六五年
この176ページが著者ガリーナ・セレブリャコワが1934年に書きはじめ1965年に書き終えた最終のページです。
この本は一昨日から読みだしていたのですが、今夜中に読み終えたいので……、「つぶやき」は明日にします。
それにもう一つ、従妹のR子ちゃん(旧名 R先生)から手紙が届きまして、内容は「原子核の結合エネルギーについての初歩的な事柄」についてとかです。
日本の原発の再稼働とかウクライナのチョルノービリ原発とか、何より目前の戦争が核戦争の危機を有していること。このすべてのことの基本に「原子核の結合エネルギーについての初歩的な事柄」があるのです。そして私の「学校時代(小学校〜高校)」に、このことを学んだ記憶がありません。自習しなければなりません、それも必修科目です。
それでは、今夜はここまで、お休みなさい。
「夜の終わりの午前3時」と言いますから昨夜というより今朝の始め、3時半頃までこの文庫を広げていました、
トルストイの『戦争と平和』です、この文庫本は旧版で全8冊です。
3日の「つぶやき」のYouTubeに、ウクライナの人々が、今後トルストイを読まないと言っている、と。
それを聴きながら、この作品を持っていることを思い出しましたが、直ぐ手に取れる場所にはなく本棚のどこだったか? と思いつついて昨日「掘り出した」のでした。かなり以前古本屋の棚にセットで幾ら、と出ていて「何時か読む本」として買っておいてその「何時か」が「今だ」として出て来たのです。
私たちの世代が旧漢字に接した最後の世代でしょう。こんなページからはじまっています。
旧字のまま文字写しをしておきます、
解 題
『戰争と平和』が量に於ても質に於ても、はたまた取材の範園に於ても、世界文學中ホーマーの『イリアッド』と比肩するに足る一大叙事詩である事は、今さら異議をさし挟む餘地もない既定の事實である。この作は千八百五年から千八百二十年に亙る、ロシヤ歴史上重要な時期を再現したもので、ボロヂノの戰、ナポレオンのモスクワ占領、モスクワの炎上、フランス軍の退却など、ロシャ國民にとって忘れることのできない記憶すべき大事件が、極めて詳細に描寫されているのみならず、アレクサンドル一世、ナポレオンの二皇帝のほか、幾多の史上人物が物語の舞臺面に現われて、讀者の眼前に活躍するなど、スケールの雄大なことは真に匹儔を見出すことができないほどである。しかし、『戰争と平和』は單にいわゆる歷史小説であるのみならず、波瀾と變化に富んだ傳奇小説であり、甘美な戀愛小説であると同時に、人生最深最奥の問題に解答を與える思想小説でもあり、その構成の複雑多端なこと世界の文學中他に比類なく、大トルストイの藝術的創造の頂點を形作るものである。
トルストイがこの創作に着手したのは、彼がモスクワの醫師ベルスの娘ソフィヤ・アンドレーヴナと結婚して、自家の領地ヤースナヤ・ポリャーナに新家庭を作り、この上もない幸福と、輝かしい希望と、明るい平静な心境を楽しんでいた千八百六十四年、即ち、文豪が三十六歳の時であった。静かな田園の風光、若く美しい賢明貞淑な妻、充ち足りた生活、長い放浪と模索の後に
21世紀の「戦争」の推移を見つつ、19世紀の「戦争」を読みすすめてみます。「戦争と平和」を考え抜き平和を生み出さなければなりません。
この話を読んだ思い出したのが、
逗子市の書店というより本屋さん、「町の本屋」でした。
私も少しは作るのに協力したこの本も、
平台に山積みしてもらって、かなり売ってもらいました、ほぼ10年前のことですが、地域の人との繋がりが大きかった現れでしょう。
こちらは書店とか本屋さんとかのことではなく、その元の本のことです。
https://www.amazon.co.jp/dp/4093891044/?tag=shogakukanonl-22
横尾さんの「セトウチ」さん宛の書簡の書き出しに、
今日、自宅とアトリエの本と写真などの資料をごそごそ、引っぱり出しながら見ていたら、もう何十年も前に買ったり、集めたりしたものばかりで、本などはいつか読むだろうと思って買ったまま手つかずになった名著や(僕にとっては)宝物ばかりがどっさり出て来て、何十年も味わうことのなかった興奮に酔いしれています。
とありました。
私の本棚にも「積読」ならぬ「いつか読」がヤマとあり、その一冊のジョン・ロン『統治二論』が、最近本棚にあることに気付いたのでした。
これは先日ブログにアップしました元検察官有志による安倍政権への意見書のなかに引用されている一文に、
時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
とあり、この本なら「いつか読」のなかにあったはずだと、本棚をみたらありました。該当ページをはじめ目を通しているうち、「いつか読もう」は「いま読もう」になってきてページを追いはじめました。改めて民主主義の思想的積み重ねの高さ深さへの敬虔の念を、意識的に追っていくことの重要さを感じます。
寂聴さんの言葉「死がいよいよ近づいてきた」から「いよいよ」感を外したとしても「いつか読」の余裕はなくなってきてます。試験前の詰め込みならぬ、人生締め切り前の「詰め込み読」の様相を呈してきました。
に収められている三浦哲郎の「私の履歴書」は、
「私は、昭和六年三月十六日、東北の三陸海岸の北はずれにある青森県八戸市の、三日町という商家が軒をつらねている町筋に生まれた」ではじまっています。
私の兄は同年の二月生まれですから早生れ同士で、尋常小学校入学とか、
「太平洋戦争がはじまったのは五年生のときの冬である」とか、
「翌々年の昭和十八年春、私は八戸国民学校(すでに数年前からそういう名称に変わっていた)を卒業して青森県立八戸中学校に入学した」とかも、
兄の入学したのは生まれた東京神田の小学校ですが、当時の日本の少年の同様な経歴をたどることができます。
以前このブログにアップした兄のことを思い出しました、これです
https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/ba3562b955d042205c9e2a40bc307d0b
小池は私の旧姓です、兄は三浦哲郎死去の6年後2016年の6月に85歳で亡くなりました。三浦哲郎が「ためらわずに文学の道へ進」んだのに対して、兄は小説的なものを拒否した生涯で「つくりものを信じなくなった」のだ、と言ったことがありました。
兄の本棚には小説類としてあったのは、ただ一冊の文庫本トルストイの「クロイツェル・ソナタ」で、なぜ「クロイツェル・ソナタ」だけだったのか推測できたのは、亡くなる3年ほど前に兄の口から聞けた告白でした。
人が生きていくうえで文学を求める時がある、必要とする時がある。そんなことを「つぶやき」、三浦哲郎の「私の履歴書」の感想とします。