kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

シャーロック・ホームズ 「日付の研究」

2024-05-12 23:47:16 | kaeruの『資本論』

シャーロック・ホームズとワトソンが出会い共同生活を始め、最初の「事件」がコレです。

緋色の研究

で、このなかに3月4日という日付が出てくるのですが、

「三月四日のことだった。これは、覚えていても不思議ではない日付だ。」(「推理の科学③」)

その後の方で、(「トビアス・グレッグソンの調査結果①」)

「二人は今月4日火曜日に女主人に別れを告げ」(この「二人」とはホームズとワトソンではなく、事件中の者たち)

という(作中の)新聞記事が引用されています。

ネットでシャーロック・ホームズを「検索」すると、この3月4日は1881年としているのですが、カレンダーでは火曜日でなく金曜日です。

ワトソンの書き出しが「1878年、私は〜」からはじまっていまして、日時を追って来ますと、この頃が1881年以前ではないと言えます。

そこで、3月4日が火曜日を見ていきますと、1884年の3月4日が火曜日なのですが……。

1881年でしたら、このロンドンにマルクスは生きていました。不破さんの『「資本論」探究 全三部を歴史的に読む』の「年譜」では、

「3〜6月 ジョン・ラポックの著書『文明の起源と人類の原始状態』(1870年)の摘要をつくる」

とあります。

1884年の3月4日では、前年の3月14日にマルクスは亡くなったいますので、ロンドンではマルクスの遺志を受けてエンゲルスが、

(同不破著書によると)

84年 3月〜5月 マルクスの遺稿「モーガン『古代社会』摘要」を指針に、『家族、私有財産および国家の起源』を執筆。

と、あります。

何れにしても、1881〜1884にかけて、世界史をつくっていた資本主義の最も発達してたイギリスはロンドンで、人類史上稀にみるマルクスとエンゲルスという頭脳の組み合わせが「人類史の科学的探究」に取り組んでいました。そして、同じでこれまた稀にみる探偵的頭脳の組み合わせが、「刑事諸氏を悩ませる」事件の解明に取り組んでいたのです。


マルクスとホームズ

2024-04-28 07:24:39 | kaeruの『資本論』

マルクスは『資本論』のカール・マルクスで、ホームズはコナン・ドイルの『シャイロック・ホームズ』なのですが、なんでこの2人が並んでタイトルになっているのか?

我が家の本棚に文庫本で一冊『シャイロック・ホームズ』ものがあって、かなり前に読んだ時、ホームズとワトソンが活躍していた当時のロンドンでマルクスとエンゲルスも活躍していた、と思ったことがありました。

もちろんホームズは小説上の人物ですから、マルクスやエンゲルスがロンドンのある街角で会ったかもという「物語」、住まいが両者ともロンドンで19世紀末の「物語」としてです。

その辺を知る為には、『シャイロック・ホームズ』を読まねば、図書館に行って来よう、と考えていた矢先、

こんなURLに出会いました。

コンプリート・シャーロック・ホームズ

コンプリート・シャーロック・ホームズ

 

 

クリックしますと、

『シャイロック・ホームズ』シリーズが全部読める❗️これは嬉しい‼️

早速『緋色の研究』を読み出して、冒頭から

1878年と1880年7月27日が出てきて、マルクスが亡くなる5年ほど前からの物語だと頭に入れたのですが、その頃の舞台はロンドンではない。

登場人物のワトソンがアフガンで負傷し帰国、

ロンドンに舞台を移して、ある年の、

3月4日という日付が出てきます。すでにロンドンは「ベーカー街221Bの部屋」にホームズと同居しています、この3月は何年の3月なのか?

マルクスが亡くなったのは1883年3月14日、仮にその年だとすればマルクスの死の直前の日々の中の3月4日となります。『緋色の研究』を読み進めていけば年が特定できるかも知れませんが、ここまでの歳月の動きからは1881年ではないかと推測してます。

この年の12月2日マルクスの妻イェニーが長い病の床を経て亡くなっていますが、マルクス自身も重い病で妻の葬儀に立ち会えませんでした。妻の死は、マルクスの病状を更に重くしていきます。

何れにしてもこの時期、イギリス国の首都ロンドンを舞台に人類史上稀にみると言ってもいい偉大な頭脳が一つ無くなり、一つ生じていたのです。無くなったのは現実で、生じたのは作品のなかですが。マルクスの頭脳をエンゲルスは「人類が今日持っていたもっとも非凡な頭」と書いています。シャイロック・ホームズは自分について、「僕は観察と推理の両方の天分に恵まれている」ので「おそらく世界でただ一人」の「専門的な助言をする探偵」と紹介しています。

ホームズの類い稀な観察眼と推理力によって書き出される19世紀末期前後のロンドンの姿は、マルクスとエンゲルスが生きていた世界です。『資本論』の行間を読むに、当時の人々の息遣いを感じることにも通じるでしょう。


4月の終わり近くに……。

2024-04-25 23:05:46 | kaeruの『資本論』

長く休んでいて、ある日遅れて授業中の教室に入るようなかなり気恥ずかしい気持ち、ある意味では懐かしいような気持ちでブログに指を動かすのもそう悪いものでもありません。

3月2日の「つぶやき」で「緑内障の心配」をつぶやいていますが、逗子駅前の眼科からの紹介で鎌倉小町通りの眼科に2回通っています。どうやら両方とも白内障での手術になるとのこと。もう二十年ぶりかくらいで視力を計って右の1.0は変わっていませんでしたが、左が0.1だったのが0.05になっていました。

何やら近年の健康問題の悪くなる傾向を一手に引き受けていたのが左目だったか、という状況でした。確かにこの一年くらい左目がかすみ、常時三分の一くらい閉じている感じが続いていました。病院ではしっかり開いています、と言われるし鏡をみると確かに開いています。何やら丈夫そうでも内面弱っている身体を象徴しているのかも知れません。

カテゴリーに「Karriの資本論」としています、タイトルも目の話ではありません、あくまでも「この長い休みの言い訳」です。

本題は「資本論」。

まあ、自分の目で読める「最後の資本論です」という思いが無意識のうちに目の話から入ったのかも知れません。

日本共産党発行の雑誌に「月刊学習」というのがあるのですが、その3月号から「独習『資本論』」という連載が始まりました。“不破哲三著『「資本論」全三部を読む 新版』を導きに”と言います。

全国で新学期が始まる4月、4人の孫の最年少が大学進学で入学式の写真がラインで送られて来て3月中旬に会った時の少年顔が、一気に青年顔になっていて驚いたのです。石垣島の孫の兄の方は大学院に進み、妹は奨学金を受けて北京の外国語大学に留学生で行ってます。その子からのLINE電話がうちのばあちゃんの楽しみで、ビデオ電話で40分も話し込んで無料。有り難いことで隣のうちと垣根越しに話している感じです。世界は隣同士だと思える、そういう時代に爺婆として孫世代と共に生きている。

ならば、これからの世界は? どういう世界にしていくのか、して行くことが出来るのか。そういうことになると矢張り『資本論』を頭に入れて置きたくなります。特にこの間『資本論』は、日本共産党の研究を中心に新たな発見を盛り込んで「新版」として刊行されています。更に不破哲三著『「資本論」全三部を読む』も『新版資本論』を受けて「新版」として全7分冊が刊行されました。

「資本論」をめぐる環境の進化に加え、孫たちの各々が新しい日々を歩んでいる息遣いを感じながらなら、「難解資本論」に向かう励みになるというものです。

 


指先の不調にあらず。

2024-02-24 17:20:06 | kaeruの『資本論』

昨日の「つぶやき」については、指先ではなく身体全体の姿勢に問題あり、でした。要は机にiPadを置いて安定させていれば問題なく⤴️されたのです。身体を布団の中に入れ、指先で作業するという怠け者スタイルがまず第一原因。それにもう一つ原因は、Apple Pencil がどこかに置きわすれたままで不器用な指先に頼るからです。

ということで猿的反省して、今日は机上の作業です。

 

一昨日はこの写真からはじめました、

多分この「つぶやき」に、何回か⤴️されていると思います、そして多分その都度『資本論』を読もうとか学ばねば的なことを「つぶやき」、いくらかそれらしいことをやってきたと思います。一昨日も目も確かなうちに読み終わるくらいのことをしておかねば、というような「つぶやき」で、不破哲三さんの《『資本論』全三部を読む 新版》も開いたりしました。

そして昨日、何となく開いたこの本、

のここに、

昭和十二年を詠み込んだ一首があります、

昭和十二年(1937)に発行された長谷部文雄訳『資本論 第一巻』については、この本のなかで岡本博之氏(元日本共産党中央委員会常任幹部会委員)が、こう書かれています。

もっともこの1939(7)年という年は、日本帝国主義がいわゆる盧溝橋事件をひきおこして全面的侵略を開始した年であり、いっさいの進歩的な言論研究、運動などを圧殺する暗黒政治がつよめられるなかで、長谷部『資本論』は発売禁止の処分を受けました。

昭和十二年(1937)は私の生まれた年で、自ずから関心を持たざるを得ない年です。この年に科学的社会主義理論探究の先達としての長谷部先生が『資本論』(第一巻)の翻訳を遂げ、それに対して国家権力が発売禁止の攻撃をかけて来ていたのです。

改めて自分がどういう時代に生まれたのか、そしてその時代に日本において『資本論』はどう受け止めれていたのか。研究翻訳発行と発売禁止の二つは、自分にとって何を意味しているのか、自問自答の「つぶやき」を始めるべきでしょう。

 


『資本論』 を身につける。

2023-11-26 15:32:03 | kaeruの『資本論』

タイトルにしました言葉、今朝がた何かのチラシに書かれていたのです。それをここでもチラシごと紹介しようと思って、机の周辺の紙の重なりや本やノートの間を……、見当たりません。

今の世の中、あれだこれだの現象を追っていては見えない変化に気付かず過ぎて行く。こんな時こそ、時代の本質的な変化を見抜く眼力が必要、というような意味のことが書かれていて、「『資本論』を身につける」という趣旨の言葉があったのだと思います。

これはなかなか面白い、「『資本論』を読みましょう」でも「学びましょう」でもなく「身につける」のです。身というと身体ですから、発言やお喋りまたは書く事が『資本論』的だけでなく、日常の身体の動き言うならば生活が『資本論』的になる、ということでしょう。

エンゲルスが「『資本論』は労働者階級の聖書」と言ったことがありますが、要はキリスト教を信じ日常生活も聖書に依拠する信徒のように、労働者階級の一員として自ずから『資本論』的日常生活になっている、また日常的に己の生活を『資本論』によって律していく、そんなイメージが「『資本論』を身につける」事なのでしょう。

日本共産党の29大会決議案の『資本論』に触れたヶ所、

日本共産党がその理論的基礎を科学的社会主義に置いているわけですから、その理論的な要の書としての『資本論』を身に付けることを意識して読み、「学習に挑戦しよう」は理にかなっています。


『資本論』 の宿題からの課題へ。

2023-11-24 06:15:49 | kaeruの『資本論』

「しんぶん赤旗」を配達し終わって、夜明けのなかで『資本論』そのものに触れようと思ったのです、がある宿題を思い出しました、

これなのです。

 

1862年6月18日付、マルクスからエンゲルスへの手紙 - kaeruのつぶやき

手紙文の写真だけ貼って文字移しをしておきます、少し他のことに手をとらえますので、「つぶやき」は明日以降で……。『親愛なエンゲルス!またも自分の窮状を...

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ここで〝「つぶやき」は明日以降〟と言ってそのままになっていました。

実はマルクスのこの手紙のなかでこう言っている部分、

それはそうと、ぼくはいましゃにむに仕事をしている。妙なことに、ひどい貧乏にとりつかれながら、いまほどぼくの頭がよく働いているときは、この数年来なかったことだ。

妻が死にたくなった、と言うほどの貧困のなかでも「よく働く頭」が当時何を研究していたのだろう、それが『資本論』執筆とどう関わっているのだろう、という疑問が湧いたのです。

それはマルクスの『資本論』を読むということがどういう事か、それにはマルクスの頭とはどういう頭なのか、知っておきたくなります。

この人の言葉から、

Wikipediaの「エンゲルス」からですが、マルクスの死に際して語った言葉です。マルクスの頭脳とは、それを失うことが「人類は頭一つだけ低く」なるそういう頭脳でした。

そういう頭脳だからこそ、悲惨ともいえる苦境のなかでも己の研究課題の追求から離れなかったのですが、その追求課題とは何だったのか。

不破哲三著〝『資本論』全三部を読む 新版 第一分冊〟の年表から、

1862年6月18日、例の手紙が書かれた6月に

ロートベルトゥスの地代論などの研究。
続いて、リカードウの地代論、利潤論、恐慌論などの
集中的な研究。 地代論では、絶対地代論を基本的に完成
させた。恐慌論では、「資本論」準備過程でのもっとも
包括的な研究となる。

とあります。この記載は手紙のこの部分に通じます、

いまやついにぼくはあの不愉快な地代論もかたづけた。……ぼくはずっと前からリカードの理論が完全に正しいということには疑いをもっていたが、ついにそのごまかしを摘発した。

不破さんは同書で、

『資本論』が、経済学にそれまでの歴史の徹底した研究の上に成り立っている」(同種p102)

と述べていますが、この部分もその一端です。

不破さんが同書の、

三 マルクスは、『資本論』をどのように準備したか?

の締めに総括的に述べている次の言葉も『資本論』を読むうえで肝に銘ずるべきものと、あらためて思い自らの課題にしなければと思います。

「このように、『資本論』には、その最初の草稿が書き上げられるまでにも長い歴史があり、第一部を刊行したあとでも、全体を仕上げるためのマルクス自身の苦闘と努力の歴史があり、さらにマルクス死後、残された草稿を編集するエンゲルスらの労苦の歴史がある、文字通り、 それ自身の歴史のなかにある著作なのです。みなさんに、この歴史の全体を自分の手で調べなおすことを注文するわけではありませんが、『資本論』を読む時、そういう歴史をもった著作だということは、ぜひ頭においてほしい、と思います。」(同書p88)


1862年6月18日付、マルクスからエンゲルスへの手紙

2023-11-11 22:12:34 | kaeruの『資本論』

手紙文の写真だけ貼って文字移しをしておきます、少し他のことに手をとらえますので、「つぶやき」は明日以降で……。

 『親愛なエンゲルス!
 またも自分の窮状をきみにうったえなければならないのは、ぼくとしてはじつにいやなのだが、しかしどうしようもない。妻はこどもたちといっしょに死んでしまいたいと毎日言っている。ぼくは彼女が悪いんだなんてとても言えない。現状でわれわれが耐えなければならない屈辱、苦痛、恐怖は、実際、筆舌に尽くしがたいのだから。きみも知るとおり、五十ポンドはすっかり借金の支弁にあてたのだが、そうしても借金の半分も支払えなかった。七週間ものあいだ無一文でいなければならないという、

そのロンドンではほんとに危険な状態については、なにも言いたくはない。わが家ではそれは慢性的にくりかえされているのでね。でもきみも自分の経験でよくよくご承知のとおり、現金で払わなければならないきまりきった出費というものがあるのだ。そのため、四月末に質屋から出してきた物を、またもお蔵入りさせることになってしまった。 ……それが博覧会のひらかれている最中であるだけに、なおのことこどもたちがかわいそうだ。この子たちの友だちが博覧会をみて楽しんでいるというのにね。この子たちは、だれかが訪ねてきてこのみじめな状態を見なければよいがと、ただそればかり恐れているんだ。

 それはそうと、ぼくはいましゃにむに仕事をしている。妙なことに、ひどい貧乏にとりつかれながら、いまほどぼくの頭がよく働いているときは、この数年来なかったことだ。……ついでにいえば、いまやついにぼくはあの不愉快な地代論もかたづけた。……ぼくはっと前からリカードの理論が完全に正しいということには疑いをもっていたが、ついにそのごまかしを摘発した。そのほか、ぼくたちが別れてから、さらにいくつかの相当なめざましい新しい発見をした。……

 ダーウィンをもう一度読んでみたが、彼がマルサス理論を動植物にも適用すると言っているのはおもしろい。マルサス理論は、動植物にではなく、人間だけに、動植物と反対に幾何級数的に適用されるということが、マルサス氏の味噌だったのではないみたいに言っているのでね。ダーウィンが、動植物界のなかに、分業や競争や新市場の開拓や《新発明》やマルサス的《生存競争》やがおこなわれている、自分のイギリス社会を再認識しているのは、注目すべきことだ」 

 エンゲルスはすぐに親友とその家族に援助の手をさしのべ、送金した。それによってしばらく、グラーフトン・テラス九番地の小さな家に住んでいる人たちの生活は楽になった。

(ここにはマルクス家の住まいが昨日アップした所と違っています、何か分かりましたらコメントします)


1862年6月18日 於ロンドンディーン街28番地

2023-11-10 23:26:13 | kaeruの『資本論』

その時、ロンドンはディーン街28番地で、ある家族にあいだであることが起きていた。

その時とは、1862年6月18日、

ある家族とは、カール・マルクスとその妻イェニー、そして姉妹イェニーヘンとラウラ(姉は1844年、妹はその翌年生まれ)。

という事は、このマルクス伝記小説『プロメテウス第2部第6編 火をぬすむもの Ⅵ』のp146から4ページの文に書かれています。

その場所については、イギリスはロンドンのディーン街28番地、だとこれで知りました。

ロンドンでカール・マルクスが住んだ家

書かれていることの、所々を書き写してみます

その朝、もはや支払いをひきのばせない借金の計算からはじまった。

疲れたて、灰色の顔をしたイェニーが、厚い勘定書の束をもって夫の書斎にはいってきた。彼女の声はいつになくふるえていた。

 「ガス会社が最後の警告書をおくってきましたよ。きょうじゅうに1ポンド十シリング払い込まなければ、ガスはすぐに止めるっていうんです。そうなったらあなたはもう夜のお仕事ができなくなるは。うちにはろうそく一本もなく、買うお金もありませんもの」

カールは机から立ちあがった。タバコをすいたくてたまらなかったが、いちばん安い葉巻き、いやきざみタバコを買う金もなかった。

イェニーの気は昂り早口で嘆き、窮状言い立てます。

急に自制を失ってイェニーは叫びだした。

「私はもうだめ、だめだわ!  このさきまだ生きていくよりは死んだほうがましだわ。こどもたちとあなたが飢えていくのを見ているのをあたしはもうできません」 

カールは妻にとびつき、彼女の頭を自分の胸に抱きしめた。

夫の励ましにも、

イェニーはしずまらなかった。カールは黙って妻の髪をなでていた。いったい、まだ何が言えただろう?

ふたたび悲しみがふきあふれた。イェニーの神経はもうのべつまくなしの緊張に堪えられなかった。この悲しい場面の、両親のへやに、イェニーヘンとラウラがはいってきた。娘たちの顔は異常に真剣で、決然としていた。

娘たちは自分たちが働く決心を述べ立てたが、母親は頷かなかった、そして、

「〜。わたくし、どうやって切り抜けるか、考えがあります。ね、 チャーリー(カールの英語読みによる愛称)、あなたの蔵書を売らせてちょうだい」 

カールは思わず手でいすの背をつかんだ。彼は自分の本を愛し、自分の本になじんでいた。その本たちはつねに彼の従順で忠実な助手だった。その本たちの多くのものといっしょに彼は青年時代から遍歴をつづけてきたのだ。カールは反対しなかった。しかしすぐに思い惑っていることを心に恥じると、急いで妻の決意に賛成した。

だが、夫の蔵書を売るというイェニーの計画はみのらなかった。買い手がつかなかったのだ。金を入手するほかのあてはなかった。1862年6月18日、カールはフリードリヒ(エンゲルスのこと)に書いた

この日の手紙については明日に……。


kaeru の『資本論』

2023-11-08 23:59:09 | kaeruの『資本論』

『資本論』についてFacebook を開き、読んでいたら「kaeruの『資本論』」が出てきて、アレ? という感じです。『資本論』関係のものがこうして集められているのか、と普段当たり前のことが我が名が目に付くと、ネット時代の情報処理の仕組みを、簡単であるだけに「よく分かった」と言う感じがしました。

それと同時に、「kaeruの『資本論』」がいかにも中途半端で晒されていることも分かりました。Facebook では今年の1月が最後になっていますが、この間少しは『資本論』に触れていますので、それも入れて気を入れ替え読み出さねばと思ってます。

そこでマルクスがどんな状況下で『資本論』に取り組んだのか、生活状況も知りたいと、この本をめくってみました

これがなかなか大変で……、大変というのはその状況の深刻さが書かれているページに辿りつくのが、があって、それから「深刻さ」です。

もう今日も期限切れですので、明日に……。


140年前の1883年3月14日。

2023-03-14 21:51:31 | kaeruの『資本論』

3月14日は毎年きます、140年前の3月14日のことです。

この本、

のここに、

そのことが書かれています。

「三月十四日、マルクスは〜」を写しておきます。

 三月十四日、マルクスはとても気分よくめざめた。彼はおいしそうにぶどう酒と、牛乳と、スープをすすった。自然は、さいごに、残った力をだし、死の直前にはよくあることだが、ひとときだけ、まやかしの全快をにおわせた。明るい希望に家じゅうがつつまれた。 レンヘンはすぼめていた肩を張った。タッシーはひさびさに顔をほころばせた。
 しかし急に状態が一変した。 ごぼっとマルクスは血を喀いた。みんなおろおろし、うろたえ、泣きだした。病人だけが冷静のままだった。寝て呼吸するのが苦しかったので、近親者たちが彼を、火の燃えつづけている暖炉のそばの、黄色い縞の横うね織り布を張った大きな安楽いすにすわらせた。 血を失ってひどく弱ったマルクスは、まどろんでいるようだった。レンヘンは彼の休息を破らないように気をつけながら、柔らかいスリッパをはいてエンゲルスを迎えに下へ降りていった。午後三時ちょっと前だった。
 「病室におはいりください。いまうとうとなさっています」と彼女は小声で言い、親友を先へ通した。
 エレアーノルも彼女につづいて病室に忍び足ではいった。マルクスは、二分前ヘレーネがへやから出ていったときとおなじように、いすの背にもたれ、すわっていた。まぶたは閉ざされていた。安らかに落ちついた、思索にふけっているような、 幸福そうな顔だった。
 マルクスは永遠の眠りについていた。

『人類は頭一つだけ低くなった。しかも人類が今もっていたもっとも非凡な頭一つだけ』とエンゲルスは戦友たちに書いた。

この本のことやレンヘンとかタッシーなどについては明日触れます。