マルクスの文字は悪筆で、エンゲルス以外には誰も読めなかったそうです。マルクスが貧困時代ある会社に就職しようとしましたが悪筆のため断られたこともあります。
ですからエンゲルスが『資本論』の第3部を刊行し終えたあと『剰余価値学説史』を編集するために、目を悪くしていたエンゲルスは自分にかわってマルクスの手稿を解読できる者を養成しなければなりませんでした。
ここにマルクスの悪筆の話を持ち出したのは不破さんの山の本を読んでいて、何回も自分が悪筆であるという言い訳が出てくるからです。
例えば、
1990年9月の妙高山の記では、
《 宿を発つときに、女主人にたのまれて、色紙にサインペンの悪筆をふるった〜。「早朝、香嶽楼を出て、ガスと雨のなかを、妙高に登る」》
1992年8月荒川三山・赤石岳に向かう初日三伏峠の山小屋で、翌朝の場面で、
《 娘たちと近くのお花畑を散策。小屋に帰って、見た花の名を図鑑で探していると、小屋の人から色紙を頼まれた。子どものころ、学校でいちばん嫌いな課目が「習字」で、この課目が中学二年をもってなくなったとき、天にも昇るうれしさだった私だから、いつも色紙はできるだけお断りすることにしている。しかし、山の上で、お世話になる小屋の方から頼まれたのでは、そうも言っておられず、やむをえず引き受けた。
「荒川から赤石ヘ 花と眺望の山旅を 期待して」
その色紙に書いた一文である。》
1996年8月南アルプス3000メートル級最後の聖岳へ、下栗の里で、
《 郷土色豊かな、心のこもった夕食は食べきれないほど。そのあと、宿主の村会議長・野牧さんから、自分と弟姉妹三人に色紙を頼まれる。私の字は「ジを書く」のではなく「ハジを掻く」ようなものと、いつも言い訳をしながら、「国民こそ主公の日本を」と書いた。》
もう一つ、1997年、南アルプスにひかれて十年目にあたる年、と書き出しています。甲斐駒ケ岳と仙丈ヶ岳をまわって、
《 翌日は八月十三日の朝、大平山荘を発つ。出がけに若主人から色紙を頼まれ、悪筆で「自然と人間を なによりも 大切にする 日本を」と書く〜》
こう書いてきますと不破さんの字って読めなかったのか、マルクスのように……、と誤解されると困るのです、それはまったく反対です。
多分こんなに読み易い字は少ないでしょう。
字を「うまく書く」という習字教育の根深い影響で悪筆だ、というコンプレックスを抱いてきてしまった、という感じです。