kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

タウンニュース逗子・葉山版に……。

2024-06-14 12:17:33 | 逗子 鎌倉 それぞれ

先週の金曜日の「タウンニュース」です、

戦後間もない1945年10月20日午後3時ごろ、逗子湾を望む飯島崎の一角にあった小坪洞窟砲台内で爆発事故が起こった。子どもばかり15人が亡くなり、火傷やけどをした子どもも31人にのぼった。

事故は長らく秘密裏にされ、初めて公になったのは1976年に外交文書が公開され、その中に記録があったとの毎日新聞による報道だった。

また、後に逗子市の教育長を務めた、故・野村昇司氏が1973年に出版した『砲台に消えた子どもたち』にも当時の様子が描かれている。

昔も今も、地元でさえ知る人が少ないこの事故を風化させてはならないと活動を続ける人たちがいる。逗子の歴史を学ぶ会(今泉良一会長)は6月22日、逗子文化プラザさざなみホールで「砲台に消えた子どもたち〜小坪の悲劇が今語りかけるもの~」と題した講演会を開催する。

対談形式で行われる講演で、登壇者は事故で兄を亡くした草柳博氏、草柳氏の娘婿で慰霊碑の移設などに尽力する丸山治章氏、中学校教員を経て居住地の小坪砲台事故の考察を行う中澤洋氏の3人。

事務局を務める山田淑江さん(87)は当時、鎌倉の由比ガ浜に住んでおり、爆発音を聞いたという。今回の講演を「多くの子どもがなぜ、終わったはずの戦争の犠牲にならなければならなかったのか、自問自答する場にしたい」と語った。

慰霊碑を移設

事故後、遺族が現場に慰霊碑を建てたが、道路建設や海岸の埋め立てにより、砲台跡は姿を消し、慰霊碑も遺族に知らされないまま、小坪逗子海岸トンネルの上に移転された。しかし、今年の10月20日(日)に行われる慰霊祭霊祭にあわせ、元の建立地近くに新たな慰霊碑として移し替えられる予定だという。

講演会は午前10時から11時45分。参加費1000円(資料・小冊子)。
定員は150人(申し込み順)。申し込みはdaybyday1937@gmail.com(天野さん) か、046-871-9674(山田さん)

このチラシのことなのです、

いま気付いたのはまことに抜けた話ですが、このチラシをここに⤴️するのははじめて、6月22日のことを「つぶやき」ますのも今日がはじめて。何かバタバタしていて肝心のことが抜けてる感じです。

このチラシを完成させるまで半月くらいかかっていました。途中で何回かここにアップしようと思い、その都度ダメ押しが入って先延ばしをしているうちに完成後が抜ける、老化現象というべきでしょう。

 

 


一年前にも「つぶやき」ました。

2024-05-11 22:14:44 | 逗子 鎌倉 それぞれ

タイトルの意味を分かってもらうには、まずこれ、

昨日できたばかりのチラシです。

こちらは丁度一年前の「つぶやき」です。野村先生の創作『砲台に消えた子どもたち』は1973・昭48年出版でした。その「短編」として野村先生が書かれたものです。この「つぶやき」のなかで「全文に渡って紹介する」と言っているのですが、その後の「つぶやき」に出て来てません。

12ページという文章がいま手元にありませんので、知人から借りてでも6月22日前には紹介できるようにしたいと思います。

「戦前」 にしないために 「戦後」 を知る。 - kaeruのつぶやき

「戦前」 にしないために 「戦後」 を知る。 - kaeruのつぶやき

(昨日「つぶやき」ましたが投稿されていませんでしたので……)昨日は「逗子の歴史を学ぶ会」の月例会、先月は選挙で先々月は体調を崩して休んでいたので3ヶ...

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野村昇司さんが創作『砲台に消えた子どもたち』を書かれ出版されたのは1973・昭和38年でした。それがあったこともあって郷土史家黒田先生の注目することとなり、犠牲者の消息を書き残すことに繋がりました。

一年前の「つぶやき」もそういう経緯の一過程で、それは同時にご遺族等長い労苦に僅かでも報い得ることであったか、と思います。


『連鎖の海』

2024-01-23 22:45:43 | 逗子 鎌倉 それぞれ

今日のワイコマさんのブログを紹介します。

明治43年(1910)の今日、鎌倉七里ヶ浜沖で12名の逗子開成中学校生徒が遭難し全員死亡した「遭難の日」として書かれています。

 

今日は、明治時代の遭難の日 - 日本の屋根裏人のワイコマ日記です

今朝の信州は気温が0度~1度南風がなんとなく春の感じを乗せてきているような気がしました。空はほぼ快晴です。1月23日の暦を見ますと、明治時代の遭難事件が二つ最初に...

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『連鎖の海』という本が、この事故に三つの謎があるとして小説化しています。

文字部分を拡大しておきます。

 

 


小坪 鎌倉と逗子

2023-12-15 18:27:41 | 逗子 鎌倉 それぞれ

昨夜の忘年会は鎌倉駅の近くでした、衆議院選の神奈川4区で「4区市民連合」を掲げ共闘関係を担っている数人で、かなり喋り込んだ一夜でした。

そして今日は昼食時間を挟んで、逗子は小坪のホテル兼のレストランで。富士山を目前に、が自慢なのですが雨模様で残念でした。でも話に集中できて来年の最大の課題へ参加者全員が思いをそろえて今年を締めることが出来たと思います。催したのは「逗子の歴史を学ぶ会」、家族の介護で不参加の会員の一人にも会長から電話をかけてもらいました。会員全員にとって、年明けからの取組みに大きな力になるでしょう。

来賓格で列席してもらえた、N氏との懇親も嬉しいことでした。人権問題に取り組んでおられることもあって、「砲台に消えた子どもたち」に深い関心を寄せられ遺族の方との面談もされ、私たちの取組みにとって大きな力を与えて貰える人でした。

忘年会の準備万端に尽力してくれた会の事務長から、会場についてから司会役をやってと頼まれ、折角飲み駄弁る時間が取れなくなる、とボヤいたのですがやらさてもらって良かったです。ひとテーブルでの話し込みだけでなく、3テーブル11人に目配りすることで、全体の親睦状況も分かりお互いに繋がりの深まりを実感しつつ気持ちよく過ごせました。

少し早めに行ったので周辺を歩いてみて、小坪という地域が鎌倉と逗子を結ぶ地点にあることの特徴がアバウトながら分かりはじめました、その一角がこれです、

もちろん、鎌倉をはじめこの界隈には谷戸と言われる地形に寺と墓地が多く見られる地区で様々な宗派が混在してます。

この墓石の形は見慣れないものでどういう宗派なのでしょうか。

そこを抜けて少し登ると、道から離れたヶ所に、寺風の建物と墓所が、

その先は鎌倉市内に入り中学校の校門前にでました。

来年の課題である6月の集会と10月の新しい慰霊碑建立に向けて、この地区を足と目で知る機会を多くつくって行きたいと思いつつ、会場のレストランへ足を向けました。


郷土史ということ。

2023-12-06 21:10:16 | 逗子 鎌倉 それぞれ

昨日の「つぶやき」にアップしていた同じ写真です、

逗子の小坪に限らないのですが、郷土史とか歴史に関する「つぶやき」になると、黒田康子(しずこ)先生に.繋がるのです。そして先生の郷土史に対する構えを言葉にした次の一文を思い起こします。

郷土史とは自分の生活の場、死に場所である。〜 我々庶民が現在までこの国をどう生きてきたかを知り、永久平和に近づく手段を模索する学問である」。

更に「時の為政者の圧力の中で、如何に服従し、抵抗し、より自分達の暮らし易い生活を築こうとしてきたか、より良い未来を築くための手がかりが郷土史だ」。

それに加えてこの一冊から、

次のひと言を加えます、

人間は自然の中の存在であると同時に、時間空間の中に生死する歴史的存在である。歴史を学ぶ事は自己を知ることである。

最後の太文字部分は、先生から直接もう少し優しく伺った言葉です。

先生が古文書に触れながら郷土史について語っている場合、主に江戸時代の郷土の歴史かと思われるかと思いますが、「永久平和に近づく手段を模索する学問」と位置付けているように現代に繋がり未来を展望し得る学問であるわけです。

その意味で郷土史を学ぶということは、自分の生きて行くそして終焉地になるその「場」の人々の足跡と、明日に向けどういう足取りを記して行くべきかを学ぶという事です。 

小坪の「砲台に消えた子どもたち」についての諸活動を通じて、郷土史についての認識を深めあっていく活動でありたいとの思いを深めています。


「1945年10月20日の小坪砲台爆発による子供十数人の爆死問題」

2023-12-05 23:33:16 | 逗子 鎌倉 それぞれ

タイトルをこのようにしたのは、この爆死が「事故」なのか「事件」なのかに関わるからです。「事故と事件に違い」は、

この爆死の原因になった爆発の原因について言われている「子どもがマッチを」であっても昨日紹介しました「大人が蝋燭を」であっても爆発は「故意」ではありません。ただその後の経緯には事件性を含んでいると思われます。その問題を含みつつ来年の慰霊碑移動と新慰霊碑建立に向けて、遺族関係者の動きと関連しつつ「逗子の歴史を学ぶ会」は6月の「集い」に向けて活動を始めることになります。

そこを中心に会長を交えて会の中心のところで、明日意見交換をすることにしました。その際、会の初代会長の黒田先生の生前の郷土史に対する思いを振り返っておく必要があると考えます。

そこで、

この二つの文書に目を通しておかなければなりませんので、「つぶやき」はここまでで、明日の報告に繋げたいと思います。


「子どもたちの墓場」 と 「慰霊碑」

2023-12-04 23:58:57 | 逗子 鎌倉 それぞれ

「墓場」とは、いま私たちの見ている「現実」、ここです「ガザ」、

「ガザが子供たちの墓場に」死者1万人のうち4割が子供 戦闘によるトラウマも…「代償は何世代にもわたって続く」(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース

「ガザが子供たちの墓場に」死者1万人のうち4割が子供 戦闘によるトラウマも…「代償は何世代にもわたって続く」(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース

イスラム組織・ハマスとイスラエルの武力衝突から1カ月が経過した。テロの犠牲となったイスラエル市民と共に、大きな犠牲者とも言えるのがガザの市民。中でも子供たちだ。...

Yahoo!ニュース

 

「慰霊碑」とは、逗子市の市議会議員であり「逗子の歴史を学ぶ会」会員の加藤さんのFbをお借りして、去る10月20日の慰霊祭で、

今日、小坪の慰霊碑に関連して亡くなった子供のことを調べている方とお会いし、かなり詳しく教えてもらいました。その内容については会の例会を通じてお伝えできると思います。

ここでは、戦争というものが弱者なかでも子どもに如何に犠牲を強いるか、を大人として責任をもって心に刻まなければならないかと感じてきたことを書き留めておきます。

「ガザ」での「子どもの墓場」については画像を見てもらえればと思いますが、逗子の小坪の「砲台に消えた子どもたち」は、戦場でもなければ戦時中でもありません。

78年前の8月に終戦になり2ヶ月後に砲弾爆発によって、焼けただれて死んでいったのです。

その原因について、

出火の原因は子供がマッチを摺ったのではありません。壕の奥の方に入っていた5〜6人の男の一人が蝋燭が燃え尽きたと思って捨てたのが火薬に引火して爆発したのです。壕は奥のほうからトンネルになって出口があるので大人達はみな助かりました。入り口の方にいた子達がほとんどやられたのです。

と、今日の話の資料に、当時小学生3年だった地元の方の証言を記してありますが、その人のお兄さんが被爆して亡くなっています。

この「子供がマッチを摺った」という話が当時広がったのか、その後記されるものに「原因は子供がマッチ」とされるものが多くあります。

また今日話された中心は、何人の子どもが犠牲になったのか、でした。加藤さんは14名と書かれていますし、多くの記録には14名とあり氏名も分かっていますが、15とも16名とも記された記録も出てきてます。

来年の10月には新しい慰霊碑を元の砲台跡近くに建立し、全員の霊を祀ろうという遺族のあらたな思いです。そのためにも一人の霊ももらすことは出来ません、今後関係者の誠心を集め完全を期さねばなりません。

「逗子の歴史を学ぶ会」としては、半年先の6月22日の「集い」から、10月の新慰霊碑建立に向けて黒田初代会長の遺志に応えてと、思いを固める日になりました。


「二つの碑」 について。

2023-10-20 19:58:32 | 逗子 鎌倉 それぞれ

一つ目の碑は全国的にも知られています、この碑

亡くなった12名の少年の記念像はこちらからのものです、

説明文も含めてご覧下さい、 

真白き富士の嶺記念像

 

一方、14名とも16名とも言われています少年たちの慰霊碑は、

この一枚は、こちらのYouTubeの2:45くらいにあり草柳博さんが話されています。

今日が「子どもたちが砲台に消えて」78年目の忌日で、事件が起きたのは昭和20年10月20日でした。

今日は、午前10時から草柳さんの女婿・丸山治章氏(逗子市議)の元で慰霊祭が催されました。90歳近い草柳博さんも参加されました、「逗子の歴史を学ぶ会」からも会員の多くが参列しました。

会長が都合が悪く欠席したので副会長として私が「当会としての考え方」を読み上げました、以下該当の一文です。

表示されている部分に②の後半と③を含めて全文の文字移し、

当会としての考え方    会長 今泉良一

① 「砲台に消えた子供たち」 のことは、逗子市民でも知っている人は極めて少ない。 当会なりに関係部署 (逗子市、横須賀市 横浜防衛施設局) と接触し、 何があったかを地道に調べて、小坪地区を始め逗子市民の皆さんにお知らせしたいと思っている。 事故が起きた時、 逗子市は横須賀市の一部であり、 逗子市には 「砲台に消えた子供たち」に関する資料、ファイルは残されていない。 (市民協働課, 石井次長による)

② 爆発現場の小坪南砲台入り口に、慰霊碑と卒塔婆が設置されていた。 いつのころからか、 遺族にも知られることなく、 小坪逗子海岸トンネルの上
(市有地)に移され、 お参りする人も少なく、 放置されていた。 当会は、昨年12月に丸山議員のご案内で慰霊碑にお参りし、 お墓掃除も行った。
ご遺族のほうでは、慰霊碑を現在の場所から以前あった砲台跡の近くの平地に移す計画がおありとお聞きしている。 そうすれば、一般市民の方も
お参りしやすく、とても良いと思う。

③ さらに、現存する慰霊碑は、小さく古く、(裏に、建立年 昭和24年とある)書かれている遺族の名前も読めない。 遺族方は、慰霊碑を大きく新し
くして、犠牲者の名前を刻んだものにしたい、との希望をお持ちであるが、 新設にはコストがかかる。 当会では市民の皆さんに現在の状況をお知らせし、賛同される市民の皆様から寄付を募り、いくらかでも遺族の皆様をバックアップして行きたいと考えている。 ぜひ、皆様のご協力を賜りた
い。

本当はその慰霊祭の状況を写真でご覧いただきたいのですが、写してもらったiPadを落として「アルバム」に保存されていません。同行した人から貰ってここにアップし、少し言葉をつけ加えたいと思います。


夏の月

2023-07-02 20:28:21 | 逗子 鎌倉 それぞれ

涼しくなってきたので窓を閉めかけたら、月さんが……、

窓閉めの手を止めて月影を拡大して写すと、

うさぎが手を休めてこちらの様子を見ている感じです。

歳時記を開いてこんな句が目に、(『ザ・俳句十万人歳時記 夏』)

語らねば忘るる戦夏の月        ザ俳句p109
戸締りに出てしばらくを夏の月    〃p110
まだ青き空にうるめる月涼し     〃p114

特に「語らねば」の句は昨日の集まりでの話と繋がります、

昨日の「集まり」は、

私も関係している「逗子の歴史を学ぶ会」の会長が話したなかで、

こちらの部分、

【誰も語らなければ歴史の中で『なかったこと』になってしまう。戦争や平和のあり方が議論されている今、もう一度戦争の爪痕を見つめなおしてほしい】

会長が「14少年の霊に捧ぐ」と題して話されたことは、かなり長くなりますのでの改めてアップします。

 


「戦前」 にしないために 「戦後」 を知る。

2023-05-11 22:37:47 | 逗子 鎌倉 それぞれ

(昨日「つぶやき」ましたが投稿されていませんでしたので……)

 昨日は「逗子の歴史を学ぶ会」の月例会、先月は選挙で先々月は体調を崩して休んでいたので3ヶ月ぶりでした。話の中心は引き続き「砲台に消えた子供たち」で、事件の現場になった小坪地域の市議会議員が参席し、遺族の関係者として慰霊碑問題を中心に話されました。

慰霊碑問題は行政の関わり合いもあることで、これからも会の運動を通じて語られていくでしょう。それとの関連で今日新しい視点で「砲台」問題を見ることを気が付かせてもらったにはこの一文です。

全体で12ページをこえるので、肝心なところだけアップしておきますがいずれ全文に渡って紹介すことになるでしょう。

野村昇司さんは『砲台に消えた子どもたち』を著した

逗子市の教育委員長を務めた方です、野村さんの書かれた最後の部分、

「この砲台に消えた子どもたちの事実を小坪小学校の沿革史に書き込むことを成し得なかったことが今でも無念のひとつであります」

この無念さは共感できるものです。

野村さんはすでに亡くなられています、遺された者としてまた短い期間でしたが逗子の歴史に対しする思いを共有した者として、無念の思いに応えねばと考えます。同時にそれは単に一人の先輩の思いに応えるにとどまらず、戦後の実態を通じ戦争というものの実態を明らかにすることにもなります。

「戦前」の次は「戦争=戦中」でありその後に迎えるであろう「戦後」、それがどう想像出来るのか? 

新しい時代を生み出す機能を創造と呼びますがそれを真に創造するためには、想像力が豊かでなければなりません。確かな想像力を得るために求められますのが歴史への観察力です。

野村昇司さんそしてより先輩の黒田康子(しずこ)さんの歴史観察力に学びつつ「戦前にしないために戦後を知る」学びをすすめたいと思います。