今日の「いざ、鎌倉」はこちらで、
こちらは「信州の鎌倉」長野県上田の別所温泉のある塩田平のことです。なぜ鎌倉からかなり離れた上田市に鎌倉があるのか、
そこに「未完の塔」とか「未完成の完成の塔」とも呼ばれる三重の塔があります、前山寺というお寺です。
塩田平に私の父母と兄のお墓があります、この3年ほど諸事が重なり里帰りをしていませんが今年はなんとか、と思います。もう数十年前、父は亡くなっていたと思いますが母と兄が元気な頃のことです。周辺の田圃の畦道にそう大きくはないのですが、「いざ、鎌倉」と書かれた道しるべが立っていました、あるいは「鎌倉街道」と書かれ方向を示す矢印だったかも知れません。何れにしてもあっちが鎌倉だよと南の方を指していました。
三重塔の説明は、 前山寺三重塔 | 上田市の文化財
この説明文の一部に、
私の記憶に残る昔、三重塔の前に掲げられていた「説明文」に、「鎌倉に変事が起きたという知らせが入り、塔づくりに携わっていた者達も、いざ鎌倉!と一斉に鎌倉へ向かったため塔は未完成に終わった」という趣旨が書かれていた覚えがあります。現在はどういう説明文になっているのか、多分別のことが書かれているのではないでしょうか。
100年人生とか言われはじめていますが、この時代に相応しい時代を見る目のためには、いよいよ1000単位で見る目が必要になっているようです。
現在の「ウクライナ」を理解するうえで、2014年のクリミヤ半島を知らねばならないと知り、ブリタニカ国際年鑑を広げました。
この記述の最後の数行です。
「ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は3月、ロシア系住民の保護を口実にクリミヤへの軍隊派遣について連邦議会の承認をとりつけ、数日間でクリミヤ半島を事実上制圧した。
2014年3月16日、クルイム自治共和国で住民投票が行なわれ、97%と圧倒的な得票でロシアへの編入が支持された。これをうけて3月18日、プーチン大統領はクリミヤをロシア連邦に編入する条約に署名した。」
ロシア軍の侵攻の背景を理解するためには3000年に及ぶ、ウクライナ周辺の大国による支配権の争奪過程があります。
昨日に続き俳句の話から、
高橋睦郎さん、と気安く呼びましたが顔見知りではありましせん。ただ隣の逗子市にお住まいで私と同じ年齢だということ、俳句はもちろん詩人、歌人ですのでそれだけで親しく感じてしまいました。
この本のカバー表の高橋さんの言葉
十七音の持つ可能性をとことん追求し、「世界の存在理由の確認」に迫る境地に達していく、それは言葉の力こそ人間が生み出した最大の力だという確信からきていると思えるのです。
そこで見出し写真の長野県伊那北高校、この校章を見てください。
ペンは剣よりも強し
を示し、ペン先2本を交差させています。
ロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースが頭にある状況で、この一冊を読み「つぶやき」ましょうというのは気のすすまないことです。
こちらが本のカバーの袖部分に書かれていること、
死者の目線で見るこの世、というような「つぶやき」をしたばかりに本屋の棚でこの書名に出会うのも縁というものでしょうが、書き手が長谷川櫂、信頼する俳人が癌に罹患したとなれば一気に読む……、 とはいかないのです。
同じ癌でも六十歳代(長谷川さん)と八十歳代(私)では違うのは当然でしょうが、どう違うのか寿命からくる時間量の差に関わることなのでしょうがそこがハッキリしないのです。ハッキリしないのは当然かとも思えます。寿命とか余命とは統計数値だから、いわゆる「一般的に言えば」の水準で俺のことは具体的なこと!。
そう言えば先日前立腺について健診で出た数値が「異常あり」で、専門医の話ではこの数値でも七割は「異常無し」になっているのです、と。それは事実でしょうし、少しホッとしてもらおうという医者心でもあるでしょう。でもね、と思うのですが罹患率の三割に入ってしまう人にとって3人中の3人ですから100%なのです。
そういう目でこの本の内容を語れば、生きている日々のなかで俳句というものに関わってきていて良かったという思いです。生きている日々が確実なものであるから死も確実なものとして置かれているので、要は確実に生きているかという自問に、可と答えられることへの自賛でしょう。その確実なものに俳句も入っていると気づかせて貰えて……勿論俳句だけではないよとアレもコレもと挙げられることも自賛できるでしょう。
そうなればここで、kaeruが「つぶやき」続けることも自賛に加えておきます。
コロナ禍のニュースそれも世界的な広がりのなかで、ウクライナを巡る戦争か?の動きが加わる、すると健康診断の結果ですと「大腸がん」と「前立腺」の要検査が加わります。
世界を見てもわが身を見ても暗い、そのうえ春の訪れが遅い。明るい話はないかと、ネットを見たら「あの世は明るい(かも知れない)」と、そういう話に引き込もうとする人もいますので要注意です。
そこで増本一彦さんの話です。
去年の12月18日の「kaeruのつぶやき」で増本さんとお会いしたことを書きました、その後私の弟が増本さんと正月だったかにお会いした時このブログを見てもらい「実兄です(苗字が違うので)」と話したら、近いうちに会うと、言われたそうです。(弟は増本さんが代表を務めている団体に関係しています)
しかしその機会が来る前に亡くなられました。
話しあうべき共通の課題があったわけで、それは相手が亡くなったことで課題も無くなったわけではないのです。それどころかその課題を託されたわけです、託された者がいかに心許ない者であっても亡くなった人の視線を感じれば、これはもうドッコイショと背負う、周りの人々にも声をかけながら……、そうしてくれという声を耳にしながら、ということになります。
そこで思うのは世に「死後の世界」というと「あの世一辺倒」なのは「この世の者」が亡くなった者の背中しか見ていないのではないか、彼のまたは彼女の視線を受けとめる場、それはこの世のことだ、という思いです。
18日にここで仲間の俳句を我一人のみ選句しなかった言い訳を述べたままでした。それではアンタはどんな句を詠んでいたのですか? と何方から言われずにいましたが自らふりかえってみます。
見出しの五句がそれですが世話人の添削をえて載せていますので元の句を、
春近しちかしと君のつぶやける
元・春近し近しとつぶやき立つ人よ (この句は4人が選句)
(世話人添削「人を君にすると、妻かもしれないし夫かもしれないし、読者はそれぞれに想像できるかも……」)
日めくりを捲る指さき雨水かな
元・日めくりに雨水とありて捲る指 (これは1点句=一人が選句)
(世話人添削「指先に湿りがあるように感じられて、雨水が効いてきます」
注 : 雨水とは「アマミズ」ではなく「うすい」、二十四節気の一つ、太陽暦で2月20日頃。立春になって初めて雨が降ることをいう。)
老ふたり旧正月の海を見に
(これはそのまま、1点句。世話人の評「お正月でなく、ちょっと人出の少なくなった旧正月にでかけたというのがこの句のミソ」)
菜の花が咲いたよスマホを見て眠る
(これもそのまま、選外=選んだ人ゼロ。世話人評『外に出られないコロナの世、スマホに送られてきた「菜の花が咲きました」という写真付きのメール』)
何ものかさがし続けて浜辺春
元・探しもの探す姿よ春海辺 (選外。世話人評「海辺で何を探しているのでしょう」)
以上kaeruの「二月の五句」です。