kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

4年ぶりの上田行き。

2023-11-18 23:58:14 | 信州、なかでも上田。

兄が亡くなって7年、実は先日の塩尻市での旧友との懇親の翌日上田へまわって墓参りを予定していたのでしたが、妻のインフルエンザのよって中止になっていました。

先日甥から声がかかり、今日弟夫婦と私ども夫婦で上田に行って墓参りを済ませて来ました。2016年6月の突然の死から、翌年の一周年忌と三回忌のあと、去年の七回忌の代わりにという感じで、日帰りではありましたが心に残る時間を共有して来ました。

嫁が足を痛めて手押し車での行動とか、高校生になった甥夫婦のひとり娘は、うちからの鳩サブレーの土産を喜んでくれ、小さい頃の可愛さそのままでした。60歳になった甥は、以前会った時には太り過ぎという感じだったのですが、それが貫禄になって成熟年代の落ち着きに見えてきて、頼もしく思え、家でも会社でも中心的な役割を見事に果たしている様でした。

ただ意外に思えたのは、この間の2019年には兄に代わって親族の葬儀に列席のため上田に来ていたり、秋には中学の同級会でも上田を訪れていましたが、そのことが2019年のこととしてはすっかり抜け落ちていて、いつだったかな、と……。

この「つぶやき」をさかのぼってみて年月が確認され、2019年という年は娘の死、自分の膀胱がんが重なってそれ以外のことを覆ってしまっていたのだと気づかされました。

記録に裏付けされた記憶が、自分の変化を成長に役立てさせることに通ずるのだろうと、知る機会にもなった今日の上田行きでした。


「いざ、 鎌倉」 信州の鎌倉から鎌倉へ❗️

2022-02-27 22:15:00 | 信州、なかでも上田。
今日の「いざ、鎌倉」はこちらで、

こちらは「信州の鎌倉」長野県上田の別所温泉のある塩田平のことです。なぜ鎌倉からかなり離れた上田市に鎌倉があるのか、

そこに「未完の塔」とか「未完成の完成の塔」とも呼ばれる三重の塔があります、前山寺というお寺です。

塩田平に私の父母と兄のお墓があります、この3年ほど諸事が重なり里帰りをしていませんが今年はなんとか、と思います。もう数十年前、父は亡くなっていたと思いますが母と兄が元気な頃のことです。周辺の田圃の畦道にそう大きくはないのですが、「いざ、鎌倉」と書かれた道しるべが立っていました、あるいは「鎌倉街道」と書かれ方向を示す矢印だったかも知れません。何れにしてもあっちが鎌倉だよと南の方を指していました。

三重塔の説明は、 前山寺三重塔 | 上田市の文化財
この説明文の一部に、


私の記憶に残る昔、三重塔の前に掲げられていた「説明文」に、「鎌倉に変事が起きたという知らせが入り、塔づくりに携わっていた者達も、いざ鎌倉!と一斉に鎌倉へ向かったため塔は未完成に終わった」という趣旨が書かれていた覚えがあります。現在はどういう説明文になっているのか、多分別のことが書かれているのではないでしょうか。






千曲川ー上田電鉄ー上田橋崩落

2019-10-16 23:58:26 | 信州、なかでも上田。

子供の頃から馴染んでいた橋がこんな姿になっています、 

https://youtu.be/yq8PIOV-D0w


こちらはその電車が上田駅を発車し別所温泉駅までの28分間余、三年ほど前の映像とのことです。

上田駅を出るとすぐ上田橋を渡ります、行く手に広がる光景は「信州の鎌倉」と呼ばれている塩田平です。我が父母と兄の墓もこの地にあります。

 

https://youtu.be/eyNTIWYIdsg


動かざるものーふるさとの山

2019-05-16 21:53:30 | 信州、なかでも上田。

ふるさとである上田の太郎山と遠景の烏帽子岳について「つぶやき」ましたら上田時代ー小学校の6年だったかのことを思い出しました。

この山ですー磐梯山ー。

地図に「野口英世記念館」とありますが、その野口英世の少年時代の劇に英世役で出たのですが、劇中の歌が磐梯山を歌ったものでした。

🎶   磐梯山は動かない姿にも似たその心

     苦しいことがああっても貫き遂げた偉い人  🎶

とかいう歌詞でした。

野口英世伝に類するものを読んでいませんので、少年時代の史実としてどうであったか分かりません。しかし、春夏秋冬ー毎日ー雨天晴天雪嵐ー見えない日もその山容は不動のものとして英世(少年時代は清作・せいさく)の心に映っていたでしょう。

社会も身辺も激動という状況のなか、動きやすい自分の心のなかに「動かざるもの=芯ともいうべきもの」を、と思いつつある時に行き着いた光景です。


太郎山に登りたい。

2019-05-12 21:09:18 | 信州、なかでも上田。

昨日上田の川向う(と上田にいた頃は言っていた、住んでいたところから千曲川を挟んで向こう側)の実家から車で送ってもらいながら「烏帽子も太郎山も変わらないなー」とつぶやいていました。

甥っ子の嫁さんの運転でしたが、ちょうど千曲川を渡る時、前方が太郎山、右手かなり遠く烏帽子岳が見えていて気分良く口から出たのです。小学生の3年か4年だったと思いますが、学年全員登山だったか、山頂からの下り4、5人で下りて来て道が分からなくなり、ふた手に別れるところでアーだコーだとということになった記憶があります。

誰かが探しに来てくれたのか、自分たちでみんなの所に行けたのか思い出せませんが、無事戻れたことは確かです。

そんな太郎山はこれです、

 この写真を撮った人の狙いは上田城にあるのですが、私がアップしたのは右手の山ー太郎山が見慣れた形に近いからです。

他をネット歩きをしていたら、富士山の名前が!?

上田で富士山が見えるーこれは知りませんでした。

写真もあります、

確かに富士山です。以前ワイコマさんに案内してもらった諏訪湖の湖畔展望台から富士山を見て、あとで地図を広げ鉄道の中央線に沿って展望が切り開かれているのを確認したことを思い出しました。

上田市の北端から見える富士山はどういう地形の関係で見えているのだろう。このつぶやきを締めてグーグルマップで見てみましょう。

ということで今日のタイトル「太郎山に登りたい、富士山を見たらその場で死んでもいい」と大袈裟に「つぶやき」ます。

追伸

諏訪湖ー富士山    太郎山ー富士山


実家=上田・葉山

2019-05-09 22:45:48 | 信州、なかでも上田。

明日上田に向かいます。私の母の実家の跡取りの母親が亡くなりました。その人の夫にあたる人Sさんが私の従兄弟になるわけです。

Sさんは従兄弟のなかではもっとも年長で、私の兄より4、5歳上だったと思います。母親系のいとこ会をはじめたのが15年くらい前になるでしょうか、当時すでにSさんは亡くなっていました。亡くなったSさんの奥さんに当たる人は86歳だそうですから多分Sさんは70歳前後だったでしょう。

いとこ会をはじめる前だということもあり、Sさんの葬儀には行っていません。今回葬儀に伺うのはSさんの奥さんだからというより、母の実家の跡取りの母親だからという思いがあります。

そんなこともあり、今日娘と婆ちゃんと3人で話していて、実家について考えさせられました。娘がいきなり我が家に病身を寄せたのも娘にとって実家だからです。昨日娘との会話を通じて本人の成長のなかに「この家」が深く関わっていると感じました。

娘も息子も小学生から高校卒まで、生活の拠り所はこの家でした。父親である私は彼らの成長に直接的にほとんど結びついていないのです。母親も公立保育園の保母として家と東京の往き来でしたから、日常生活は彼らは祖母の手によって、支えられていたのです。それに祖父の影響も大変大きかったでしょう。

義父が三人姉妹の次女の夫である私を養子に、という話がありそれを受けてきたのですが、それは私の思いのなかに息子と娘に実家をつくっておきたかったのだというに気づいたのです。私の実家である兄の家と母親の実家である家の思い出に、家の歴史を受けていく人生を感じ取ることができます。

書き記しながら焦点がはっきりしない気持ちですが、明日の葬儀と一晩の実家泊を通じて少しは絞れるかなと思います。


塩田平ー無言の地、未完の郷。

2018-10-20 17:50:34 | 信州、なかでも上田。

塩田平上室賀の前松寺には父母兄がそれ以前の仏様と一緒に入っています。このお寺さんについては以前「真田丸」放映中に「kaeruのつぶやき」でつぶやいたことがありました。

( https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/e86c633b4c76ef6443cd017f6b195d42#comment-list )


これは本の最終ページに載っている地図ですが、本の発行が昭和54年初版ですので道路などには変わりがあります、もちろん文化財の位置は変わりなしです。


田中清光さんの文から、

「鎌倉幕府が信濃守護職を塩田城におき、北条一族につらなる人々がここにやってきたのものも、この土地の重要さをみとめていたからであろう」

「塩田平の古い寺をめぐってみたおどろきは」として安楽寺、大法寺などの塔が当時の尖端的な建築だったり、「中央(関西)の建築技術、感覚がそのまま持ちこまれている」ことだ。

そして、「それにもましてこれらの塔が、いままで無傷で残ってきたことへのおどろきは大きい。作ったことへのおどろきもさることながら、これが残されてきたことに対するおどろきはその何倍も大きい」と。

更に、「これまでの塔を讃美した人々の目から、ともすれば欠け落ちていた大事なものが一つあると思われる。それはこうして塔を残してきたことをめぐっての、地元の無名の民衆たちの果たしてきた無言の役割である」と。

ここに「無言」の二字をみて「無言館」を思うのです。塩田平が「無言の地」だというのはその意味も含んでいたのかと思います。

さて「未完」の二字については言うまでもなく前山寺の三重塔、田中さんの筆では、

「この塔は、二、三層に扉も窓も勾欄もなく、ただ勾欄の骨格となる長い貫(ぬき)が突き出しているので、未完の塔とよばれているが、その未完のままの姿が、周囲の自然の風物とむしろよく共鳴している」と。

無言館の絵が戦没画学生の手によるもので、そのこと自体が絵の未完であることを示しています。

塩田平を「未完の郷」と呼ぶ所以です。