kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

ありました 「小林多喜二は知られているが、 鶴彬は……」

2023-07-19 21:56:32 | kaeruの五七五

タイトルに関して田辺聖子さんは、以下ように言われています。

内容に関して感想など記すのは後にして、該当ページをアップしておきます。 

 反戦作家で官憲に虐殺された小林多喜二の名はみな人によく知られているが、同じく反戦川柳作家で、思想犯として検挙され獄死した鶴彬は、多喜二ほど知られていない。川柳という文学ジャンルに、日が当らないためであろうか。啄木に擬せられる早熟の天才なのだが。
 評論もよくした。鶴が二十九歳という若さで歿したため、志なかば、という観もあるが、それでも質量ともに堂々たる川柳論となっている。みずからの短命を予知するかのごとく、書きに書いた。短い生涯にどんどん人間的成長を遂げている。プロレタリア柳人といっても決してあたまでっかちの、固陋な教条主義者ではなく、はじめは卑賤視していた古川柳(柳樽ほか)も見直し、「そのすぐれた遺産を新しい川柳創造の上に血肉化してゆく」べく、古川柳評価の境地まで到達する(「蒼空」 昭和11.3〝古川柳から何を学ぶべきかん〟)。
 そして川柳を文学の一ジャンルとして文壇に認識せしめようとプロレタリアの立場から奮闘した。
 よき川柳作家でありながら、 文才にも長けている(ことに評論分野で) 川柳人は少いものだが、鶴彬はその点でも、稀有な、双頭の鷲であった。 川柳文学が矮小視されることに抵抗し、緻密な川柳理論や句評を展開する。
 尤も、川柳の文壇進出、つまり文学のままっ子扱いにされている川柳に正当な評価を、というのは水府の長年の悲願であった。 鶴彬よりずっと前から訴えつづけてきたことである。 「番傘」誌上で、あるいは僚誌 「きやり」などでも書いて川柳作家の奮起を促し、文壇にも川柳を俳句に劣らぬ文芸であると鼓吹してきた。その点は鶴彬と同じ立場である。しかし鶴は、「番傘」あたりの程度の作品じゃ文壇に相手にされないだろう、と、気鋭新進の作家らしく辛辣に切り捨てている(「川柳と自由」 昭和11・3〝川上三太郎と岸本水府にききたいこと〟)。
 鶴の川柳的出発は田中五呂八の「氷原」で、新興川柳派の五呂八が「番傘」及び水府を〈無自覚な伝統派〉と罵倒し黙殺したことは、すでにのべた。
 鶴の対「番傘」観もこれに同調している。
「くだらない通俗生活の断片におもしろさや、皮肉さの着物をきせた川柳では文壇に相手にされないだろう。むしろ落語家あたりが喜ぶにすぎない」
「僕たちにとつて川柳が文壇や詩壇に進出するといふことは、ブルジョワ新聞の隅つこへもぐりこんだり、「キング」あたりに下劣なお笑ひを一席やるために割り込んだりすることではない」
「僕は「番傘」あたりの作品を詩として呼ぶことが出来るかどうかうたがはしいと思ってる」(同)

 

「キング」というのは戦前(戦後も昭和三十三年まであったが)、講談社が出していた大衆娯楽雑誌である。
 ——くだらない通俗生活の断片におもしろさや、皮肉さの着物をきせた川柳・・・・・・これが本当はどんなに困難な文学的大事業であるか。
 鶴が、搾取される労働大衆の自由と復権のために戦うのも、「番傘」作家が日々押しよせる〈通俗〉の波にさらわれそうになりながら、なおかつ、こまやかな情感の真実や、詩性を求めて戦うのも、同じことなのだが。
 鶴彬にそれを、わかってほしかったなあ、と思う。 鶴をもっと生かせておいて、老いさせ、歳月の波に鞣させ、やがて「番傘」の句の、 醇乎たるよさに開眼させたかったなあ、というかえらぬ嘆きがある。私の直感では五呂八は無理だろうが、鶴彬は、やがてはある時期に至れば「番傘」の佳什を嘉してくれる日がきたかもしれないと悼惜する。
 すでに「古川柳」の貴むべきに気付いている鶴のことだし、また前記の文章の中にも、
「『番傘』『川柳雑誌』 の中の作品を注意して見ると、従来の通俗趣味から、真剣な現実生活のうたひあげへかけ上らうとする意欲や気配を感じることが不可能ではなくなつてゐる」とも、柔軟な見方をしている。
 鶏の作品は、

「手と足をもいだ丸太にしてかへし」 以下、鶴彬や、

「血を喀いて坑をあがれば首を馘り」

 などのプロレタリア川柳が人に知られているが、伝統派的手法もよくこなし、昭和九年の 〈河北郡川柳聯盟結成記念川柳大会〉ではみずからも選者を務めているが、他の選者、たとえば「北国新聞」 柳壇の窪田銀波楼、もと石川県の名門柳誌「百万石」の安川久流美らによってよく抜かれている。


「国境になるとは知らぬ河の水」 以下、鶴彬(兼題「河」)
「繭の値の安さも言ふて村の朝」(兼題「村の朝」)
「さびしくも男嫌ひの薄化粧」 (兼題 「化粧」)

「器用」といふ兼題では人位二句天位一句抜けた。

「跳ねさせておいて鱗を削ぐ手際」
「口笛を吹いて出前は交叉点」
「風船屋危機一髪で息をとめ」

など、「番傘」ばりの好句が揃っている。
——老熟の鶴彬はどんなになっていたろう、とこれらの句で想像するのだが、いろんな可能性を示唆したまま夭折したところが、鶴の魅力でもあろうか。


鶴彬の「知名度」問題は先送りします。

2023-07-18 20:31:56 | kaeruの五七五

昨日の「つぶやき」では鶴彬の知名度について、あらためて「つぶやき」ます、と呟いていたのですが……。

まず田辺さんの書かれたその部分が見当たらないのです。確か小林多喜二と比して鶴彬の知名度の低さを説明しているのですが、あるだろうと思う頁を読み返してみても出てきません。

それにいま読みすすめている「夢路の秘めた恋物語」部分が気がかりで先へ読み進めたいのです。そこで昨日予定した『播州平野にて 内海繁文学評論集』の「鶴彬と私」の(二)(三)の該当頁をアップし文字移しだけしておきます。

p92

     二

 ところが、川柳人の一叩人(本名、命尾小太郎)という人が、鶴の発掘紹介に十年の歳月を打ちこみ、全く無償のまま資料探求と彼のあしあとの調査に没頭して、ようやくまとめあげたものが昨年秋「たいまつ社」によって『鶴彬全集』となって出版された。 全一巻二段組四百七十頁にこめられた質量はずっしりと重い。
 この出版が高く評価され広く読まるべきは言うまでもないが、生前の彼と交渉を持ち、そのために一叩人の来訪を受けて、私の持つかぎりの資料文献をさがし出して提供した私は、個人としてもよろこびは小さくないのである。
 昭和十年代の暗い季節を迎えて、諷刺文学の必然的な台頭が考えられたので、私は川柳に注目し、昭和十一年六月号の「詩人」という雑誌に「川柳についての考察」を書き、古川柳の社会諷刺・権力諷刺を賞讃し、現代川柳の退廃を批判して、少数ではあるが鶴彬らの作品に古川柳の正しい継承と発展を見るとのべ、これを重視すべきであると書いた。ところが同じ号に永瀬清子氏が「川柳諷刺詩を否定す」という一文を書いていた。
 これに対して鶴彬は「蒼空」七月号に「川柳は詩でないか」という反論を書き、その中で私の所論を無条件に正しいと歓迎し、永瀬氏の論に激しく反撃した。それから鶴との書信による交友が始まったのである。
 そうして鶴彬の求めによって私は川柳誌の二〜三に評論を数篇書いている。
 彼は私をよき理解者支持者として親近感を持ったのであろう。 書信の往復もかなり頻繁にあったが、残念なことに私が昭和十七年秋 「短歌評論事件」 で検挙された時、 特高が彼の書信のすべてを押収してしまったため一片も残っていない。

     三

 ようやく鶴彬は甦りつつある。一叩人のたよりによると、東京と盛岡その他に「鶴彬研究会」が生まれ、盛岡には碑の建立が計画されつつあるそうだ。
 鶴彬は広く読まるべき庶民の文学である。 川柳は最も大衆的な諷刺詩であり、現在国民大衆のくらしの中に充満しているいまいましい対象に、痛烈なパンチをくらわせて溜飲をさげる、これこそ「スカッとさわやか」な勤労大衆の嗜好品であるべきことを、 鶴彬全集は証明してくれるに相違ない。


知ってますか? 小林多喜二 槇村浩 鶴彬

2023-07-17 22:48:31 | kaeruの五七五

田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』を読む目的のなかに鶴彬を知りたい、ということがあります。反戦川柳作家という鶴彬について朧げな知識しかありませんでした。

この文庫本は3巻で、今第2巻で鶴彬が剣花坊を訪ねて来た昭和三年の秋を読んでいるところです。

そんな時ですので、この図書館にあった払下げ本の、

この頁は私の関心にピタリきたのです、下に文字移しをしておきます。

 

  鶴彬と私   『鶴形全集』の出版によせて

   (一)

 昭和初年から、日中戦争の時代にわたって、鶴彬(つるあきら、本名喜多一二)という傑出した川柳作家がいた。彼は次のような作品をのこしている。


 凶作を救へぬ仏を売り残してゐる


 ふるさとは病ひと一しょに帰るとこ


 これからも不平言ふなと表彰状


 暁を抱いて闇にぬる


 万歳と挙げて行った手を大陸へおいてきた


 手と足をもいだ丸太にしてかへし


 日本独特な大衆性をもった諷刺詩である川柳は、その諷刺の眼をそらさずに進むかぎり、権力の理不尽と戦争の非人間性の告発の吹矢とならざるを得ない筈だが、ほとんどの川柳人たちは眼をそらして、いわば「ユーモア川柳」 のあそびへ逃避してしまった中で、鶴彬は一人敢然と権力と戦争を告発する諷刺の吹矢を放ちつづけ、 それ故に昭和十三年九月十四日、二十九歳の若さで獄死したのであった。
 同じ昭和十三年九月三日、「間島パルチザンの歌」 「生ける銃架」などの作者である天才的詩人損村浩が、二十六歳の身で特高警察の拷問の果て獄死同然の死を土佐脳病院で強いられている。
 プロレタリア文学の傑出した作家小林多喜二が、特高たちに虐殺されたのは、昭和八年二月二十日であり、多喜二は三十歳だった。
 しかし、小林多喜二や槇村浩は、多くの人の手によって評価され紹介され、作品集が出版され広く知られ、多くの人々に読まれているが、 鶴彬の業績は埋もれ忘れられ、その名さえ知る者はほとんどなくなりつつあった。

 
このあと(二)(三)と続くのですがその部分は明日にして、ここで内海さんが言われている小林多喜二、槇村浩、鶴彬に知名度です。多分、小林多喜二をまったく知らないと言う人はいないでしょう。それと比べたら槇村浩はグッと下がる、そして鶴彬になると川柳を詠んでいる人でも知らない人が多いのではないでしょうか。

 この一文は1978年に「兵庫民報」という地方情報紙に書かれ、この本の発行は1983年です。その当時から現在まで他の二人に比べなお知名度は低いでしょう。そのことに関連して田辺聖子さんも論じています、「鶴彬と私」の後部分と合わせ明日にします。


五七五、 これは「横」が良いでしょう。

2023-07-16 21:42:50 | kaeruの五七五

一昨日の「つぶやき」で、縦書きでこそ「字と句と画が渾然一体となって」詠み手を魅了する例として団子を詠んだ水府の川柳を紹介しました。

お月見団子についての検索してみましたら、こんな感じで団子が積み重なっています。やはりこれは文字も、縦書きによって積み重なってこそ渾然一体ということが実感されます。

  団子団子団子団子と積み重ね

【中秋の名月】月見団子の由来や意味とは? 月見団子のレシピ付(2021年は9月21日) - dressing(ドレッシング)

【中秋の名月】月見団子の由来や意味とは? 月見団子のレシピ付(2021年は9月21日) - dressing(ドレッシング)

グルメメディアdressing「柳原尚之」の記事「【中秋の名月】月見団子の由来や意味とは? 月見団子のレシピ付(2021年は9月21日)」です

dressing(ドレッシング) - フードライフに彩りを!

 

さて、田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり(中)』のこの頁、

が連なっている川柳の一句、これでも田辺さんの言う様に「いつしか〈柳〉という字が糸をたれたように見えてくる。河岸の柳がくれの船も絵にようである」のですが、これを横書きにしてみると、

 柳 柳 柳 柳と船がゆく

水府は時に字の遊びをするが、もちろん汚い字は排し、美しい想像をそそる字で試みる。これもいつしか〈柳〉 という字が糸をたれたように見えてくる。河岸の柳がくれの船も絵のようである。

ここから見えてくる景は、何本かの柳の木の間の川の水面をゆく船の動きが見えてくるのではないでしょうか。

 


「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」・「メロン愛歌」

2023-07-15 21:44:37 | 私の寅さん

詩人・高村光太郎の「レモン哀歌」は私の記憶に残る数少ない詩の一つすが、これを捩って「メロン哀歌」と称するのは「チト違う」感じです。

同じ「あい」でも愛にはこんな意味があるそうです、

愛」は「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したものであろう」と。白川静さんの『字統』の説明です。まさにこの一編は「心を残しつつ立ち去っていく姿です」。

この「寅次郎相合傘」ではもう伝説的場面と言うべき「メロン短歌」ならぬ「メロン啖呵」の場があります。

その場面を画家・吉川孝昭さんの「男はつらいよ 覚え書きノート」の「寅次郎相合い傘」から、まず寅さんが帰って来てメロンを出してもらおうとしたところ、

居なかった寅さんの分を切り忘れていた、そこで一悶着、いつもの大立回りが……、するとリーリーが、

以下リーリーの啖呵❗️

ビデオで観る手もありますが、吉川さんの解説付きセリフと画面紹介でその場面を頭で再生してみて下さい。

男はつらいよ第15作寅次郎相合い傘 寅さん 覚え書ノート


五七五、縦書き横書き。

2023-07-14 21:05:24 | kaeruの五七五

田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり』には数多くの水府の川柳が紹介されているのですが、こんな面白い句があります、

田辺聖子さんは「字と句と画が渾然一体とな」り、「童心.横溢の句」と言われています。

まさにその通りです、ところでこの頁を横書きにしてみると、

「国なまり母にそぐはぬ玉屋町」(〃)
 しかし水府と信江二人にとっては興尽きぬ浮世の悦楽であった。 昼間から三味の爪弾きの音が聞え、芸者や役者が往き交うまち。 青竹の駒寄せ、磨き上げた格子戸、 打水をした石畳。
 ミナミへ出ればすぐ宗右衛門町 道頓堀、千日前、
「よいすしを食べに三つ四つ路地を抜け」
「紅生姜夜店のすしもあなどれず」
「稲荷ずし冠といふ姿なり」
 水府にはたべものの句も多いが、

  団子団子団子団子と積み重ね

 という面白い作品がある。いつの程にか、さらさらと柳画のコツなども手に入れた人なので、これも字から受けるイメージをそのままに、字と句と画が渾然一体となったような、童心横溢の句である。
 千日前で電気写真という安い即席の写真を撮ったこともあり、これが新婚の記念写真となったが、あまりにボロボロになったので人に見せられなくなったと水府はいう。要するに新婚の二人にとっては「大阪はよいところなり橋の雨」を実感させられる場所に新居を構えられたわけである。

 積み重ねられた団子が一転串団子になり、一本づつ横並びに連なった図になってしまったのではないでしょうか。

 現在発行されている川柳や俳句関係の雑誌も本も縦書きです。でもネットでは五七五も横書きになっています。短歌も含めてですが短い字数・音数で感覚的なものを発信するには「字と句と図が一体」になることで内容がとらえらるものがあります。

 ネット社会・ネット時代に、短詩の表記がその内容とも関連させながらどう変化発展していくのか、案外川柳がその自由さをテコに切り拓いて行くのではとも思います。その点では「つばさ」は横開きが天性のものですから、その先頭を飛ぶのではと考えも出来ます。 


もう一つの五七五

2023-07-13 23:48:57 | kaeruの五七五

同じ五七五でも川柳は口語で詠めるということが類書を読み易くしているのではないだろうか。田辺聖子さんの本を読んでいて、そんな感じがします。そんなことでこの数日俳句の投句結果を整理することを先送りしていたら、俳句句会の世話人さんから催促されました。

今月だけでしたらまだ余裕があったのですが、「先月分も未着ですよ」とのこと。確かに送っていません、それでさっき迄二ヶ月分十句を添削など整理して送信したところでした。

この二ヶ月分はアップされたらここにもアップできると思います、今日はそれ以前の四月五月の十句をアップしておきます。


川柳恋愛譚前頁と〆

2023-07-12 21:09:54 | kaeruの五七五

例え一目惚れでも「惚れ」に至る経過というものがある筈です。人情の機微を詠み込む川柳の第一人者の岸本水府であってみれば、その恋のそもそもの始まりから語られねばなりません、それが一昨日のp314〜317の前頁313と312(後半)です。

全文文字移しをしておきます。

 〈水府君のおよめさんは、芸者やないと気に入らんとみた。しかしちょっと荷が重いな。まァ、大茶屋の仲居さんで、銘仙で暮しますというような心意気の人、捜すんやな。 どや、水府君〉
 まことにそのものずばりで、水府は返事もできなかった。
 水府は初恋といっているが ——この頃か、もう少し前であろうか、路郎が東上する前、水府にささやいた話—— 〈境川橋を越えたとこに氷屋があるねん、そこに可愛い女の子おるわ、 十六、七かな、この子が紀州の漢方医に奉公してるとき、薬になる蝮捕りにいった話をしてくれるんや、面白いで〉
 水府は正直に行ってみた。 路郎のいう通り、その店はあった。そして可憐な娘がいた。
 その物語を、水府はフィクションを加え、のちに「川柳小説」として「番傘」(昭和28)に発表した。『水府句集』にも「指」と題して載せている。 七十七句から成る、川柳で以て綴った小説である。 水府は、創作としているが、「自伝」には「私の二十二の恋を告白する」とあるので、まんざらフィクション一辺倒でもなさそうである。

 水府が境川橋の氷屋へいってみると、ほんとうに桃割に髪を結った十七ぐらいの娘がいた。その家は本職は畳屋だが、 夏だけの氷屋とおぼしく、片隅にガラスの玉すだれを吊って、裸電球が一つという貧しい店構え、桃割の少女は、可憐にも美しい子だった。 たすきも甲斐甲斐しかった。

灯がついてからも市岡暗い町 

 (市岡は大阪港区の町名、水府が住んでいた)

この頁を文字にしたのですから、p314〜317の句以外の部分を文字にしておきます、一昨日の「つぶやき」を参照して下さい。

 川柳「第一夜〜」の次の2行

 水府は思いきって声をかけてみた。きみ、蝮(まむし) 捕ったんやて?〈へえ、漢方医のおうちに奉公してましたよって〉少女は率直に口をひらき、問われるまま生いたちから語る。

 次、川柳「奉公に〜」の次の2行

 家伝薬をつくるために蛇捕りに出された、と。蛇は紺の匂いを嫌うから、紺絣を着、手甲脚絆も紺ずくめといういでたちで——。

 次は315頁、川柳「蛇幾ひき〜」に次の一行

 用心していても蝮に襲われることはある

 次も315頁、川柳「ふと目覚めた〜」の次の一行

話が弾み、水府は翌夜も、ポプラの陰の氷屋の床几に坐らないではいられなかった。

 次は316頁に移って川柳「日参と〜」の次の2行

水府はいつか、氷屋の娘に恋していた。毎夜通いつめ、少女のほうも彼を意識しているらしかった。氷の出前にことよせて水府が話しかける。

317頁の4行は、

ついに水府は三十六日通いつづけたという。やがて短か夜のはかなさ、浴衣の人通りはいつか、名月を待つ町となった。少女は水府に何もいわず姿をかくし、氷屋は当り前のように店を閉めてしまう。所も書かず、〈売られてきました〉という葉書が水府のもとへ届いたのは、それから半年もあとだった。水府の創作句はせつない展開をする。

「展開」の〆は、


川柳恋愛譚

2023-07-10 23:13:36 | kaeruの五七五

田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり 上』を読みながら、数多く紹介される川柳を通じて、今日の川柳の先達の足跡にかなり引き込まれつつあります。

特に主な川柳作家の句をそのまま読み過ごすのは勿体ないと、書き移ししはじめました。

岸本水府が多いのですが、例えば

写真の4ページ分の句でしたらこんなふうに、

ここの川柳は、水府が「川柳小説」と称しているものですが、田辺聖子さんが「まんざらフィクション一辺倒でもなさそうである」と書かれている部分です。水府自身の「自伝」には「私の二十二の恋を告白する」とあるとのことです。