タイトルの真ん中「金曜日は文化の話題」、
それがあの映画「ローマの休日」で、オードリー・ヘプパーンです。
日本公開が1954年4月とのこと、上田市でもその頃の上映でしょう、とすれば高校2年でした。今でもしっかりと刻まれていますが、観終わった後の、高揚感でもあり虚脱感でもあるようなふらつく様な幸福感でした。「人生生きる価値あり」と、灰色の高校生活のなかに生きる礎石を見出したような気持ちに浸れたのです。
ということで石子さんの一文に目を通して下さい。
オードリー・ヘプバーンが1993年1月20日に亡くなって30年になります。ウィリアム・ワイラー監督で初主演した「ローマの休日」公開70年目です。
日本上映は1954年4月でした。私は昼間働いて定時制高校に通っていましたからこの映画の“休日”という題にひかれて映画館に入りました。アン王女のオードリーのすがすがしさ。アメリカの新聞記者ジョーを演じたグレゴリー・ペックのかっこ良さ。終わっても席を立てず続けてもう一度見ました。
ヨーロッパ各国訪問中の某国のアン王女が窮屈な日々に不満を爆発させて宮殿からひそかに夜のローマに飛び出すのです。 行くあてもなく街角でショーに助けられて彼のアパートへ。翌朝、2人はそれぞれ身分を隠してローマ観光に。アンは長い髪を切り、 “真実の口” でジョーにビックリさせられます。
ジョーのスクーターに乗って走るアンに見る者も口ーマを走るような気分になります。2人のユーモアが笑いを誘い、アンとジョーに恋心が芽生え王女から快活な女性に変わっていくオドリーに自由になったうれしさが美しくあふれます。
王女が外に出て世界を知る。 愛を知る。 自分を知る。 オードリーが素朴に喜び、大声で笑い、冷静になり自分の意志で生きようとする女性像を焼きつけました。この映画出演は名優キャサリン・ヘプバーンがいるので混同を避けるため会社から改名を要望されても「名前と一緒に出演します」と拒否したほど自分の姿勢を大切にしました。
脚本に生きたトランボの心
「ローマの休日」で、オードリー・ヘプバーンは第26回米アカデミー貫主演女優賞を受賞しましたが、作品は脚本貫(原案)も受賞。じつはハリ
ウッドの赤狩りで映画界から追放されていたダルトン・トランポが友人の名前で書いたのです。 描かれた王女の自由になりたい思い、外に脱出する行動は、束縛され本名の執筆活動を奪われても書き続けるトランポの心境と抵抗心が反映されていたのです。
「ローマの休日」を見た時の私は1953年に中国から京都に引き揚げてきてまだ8カ月でした。日本になじめないことばかりでした。 中国の国共内戦の飢餓や朝鮮戦争の体験、父を亡くした引き揚げ者としてどう生きるか悩んでいて人と話すのが苦手でした。この映画のラストシーン。 特ダネ報道をやめて王女を人間として尊重するジョーの「ローマが永遠に忘れえぬ街です」ということばにジョーへの思いを込めた王女アンの2人に見つめ続けられたように感動し力づけられて映画館を出ました。
この高校の生徒会役員選挙に立候補し、初めて選挙演説もして当選。 オードリーに私の人生転換第一歩あと押ししてもらったのです。
自分の意志を行動で示した
十代のオードリーはオランダに住み、ドイツ軍と戦う地下組織の連絡係をしたり、餓えたりしました。1959年のフレッド・ジンネマン監督「尼僧物語」で成長したオードリーを見ました。 オードリー生地のベルギー。演じた有名外科医の娘ガブリエルが尼僧修練をつみ、ベルギー領コンゴで看護師として奉仕して帰国。ドイツ軍の侵略で街頭治療中の父が殺され、ベ
ルギー国王も降伏します。沈黙を求める僧院長に「敵を許せません」と抵抗運動参加を決意。院の裏口か真っ直ぐ街に向かっていオードリーの後姿が忘れられません。
戦争で生きのびた体験から50代でユニセフ活動に取り組み戦争を否定し子どもたちを救援したオードリー・ヘプバーン。自分の意志を行動で示した俳優として今でも励まされます。 (いしこ・じゅん 映画評論家)