現代に生きる我々が、伝統的な東洋医学(それゆえ観念論的なもの)として鍼灸を学び実践していくことの困難性、二重の困難性について、自身のアタマの中のイメージを説きたい。(未だにしっかりと整理しきれてい無いが、まずはアバウトにでも文章化しておきたい)
現在の鍼灸の世界には、大きく二つの鍼灸の学びが(それゆえ実践が)存在する。一つは伝統的な東洋医学(それゆえ観念論的なもの)としての鍼灸(略して「東洋医学的鍼灸」と記す)であり、もう一つは西洋医学的な東洋医学(本当は唯物論的でなければなら無いのだが、現実にはタダモノ論的なもの)としての鍼灸(略して「西洋医学的鍼灸」と記す)である。
鍼灸学校ではその二つのありかたを教わり、卒業後=資格取得後は自身の興味と必要性に従って、そのどちらかを選択するか、あるいは(ほとんどの場合は)その両者をモザイク体としてツギハギにして自身の都合と必要性に応じて学びかつ実践していくこととなる。
その場合、単に効けば良い、患者が喜べば良いとするならば何の問題も起こらないだろうが、志あって(うっかりと?)実践的理論家あるいは理論的実践家であろうとするならば、例えば、鍼灸についてすべてに筋を通して考えていきたい、説いていきたい、実践していきたいなどと考えるならば、東洋医学的鍼灸を学び実践していくということは大きな矛盾を孕むこととなる。(西洋医学的鍼灸もまた問題が無いではないが、また別の次元の問題であるのでそれは改めて説きたい)
それは何かといえば、現代の日本に生まれ育ってきて生きている我々は、世の中が、日々の生活が科学万能となっている、科学技術の恩恵に浴した生活を送ってきているかつ送っているものであるから、大抵は科学的(唯物論的)な考え方が正しいとする=観念論的な考え方に反発する感情を育ててきているということである。(ここで科学的(唯物論的)であるのは、大抵が単なる感情としてであり、実態はまた別である。そしてそれはまた大きな問題である、と思えるのでここも改めて説きたい)
それゆえ、鍼灸学校で東洋医学や東洋医学的な鍼灸を学ぶと、大抵が「え〜!?そんな無茶な!」という思いとなり、場合によっては「とてもそんなことは真面目には信じられない!」となってしまって鍼灸の世界を去ることともなってしまう。
そんな感情をその人なりに抑え込んで、もっとも前にも述べた、鍼灸を単なる資格、飯の種と考えるならばそんな葛藤も起こらないのであろうが、の東洋医学的鍼灸の学びとなるのが通常である。
ではその場合、形の上で何とか東洋医学的な考え方に対しての感情的な反発を抑え込めれば、それで問題解決となるのだろうか、ここは自身でやってみれば、ことはそう簡単では無いということが次第次第にわかってくることになる筈である。
何故ならば、理論的なアタマ、学問的なアタマというものは、唯物論的な立場に立つにせよ、観念論的な立場に立つにせよ、その立場で世界全体を自身の専門をも含めて一つの筋道で説き(解き)きることによって出来上がっていくものである筈であるから、鍼灸では東洋医学的=観念論的に、鍼灸以外の日常生活を含む場面では科学的=西洋医学=唯物論的にというのでは、自身のアタマの量質転化・相互浸透も中途半端なモノとならざる得ないのだから、理論的、学問的なアタマの冴えというものは望むべくも無いということになっていく筈である。
こう説くともしかしたら、「自分は東洋医学をその観念論的な部分も含めて心の底から信じているから、すべてに東洋医学的に筋を通していくから大丈夫である。」との反論があるかもしれない。
しかしながらそれに対しては、古代の中国や江戸時代に生きているのならともかくも、我々は、現代の日本という時代・社会に生きているのであるから、それでは日常生活はどうするのであろうか?自身の乗る電車や車が走ることも、テレビやインターネット、メールも、電子レンジで夕食をチンすることも……と、日常生活の全てを東洋医学的に、観念論的に、例えば気の働きとして捉え返して、納得していく、いけるのであろうか?と。
要するに、我々は現代という時代・社会に生きている以上は、科学技術的な物の山に囲まれて、その恩恵に浴して生活しているのであるから、東洋医学的観念論的な考え方ですべてに一つの筋を通していくことは非常に困難である、東洋医学的(観念論的)であろうとしても、通常は観念論的(東洋医学的)と唯物論的(西洋医学的)との二つのアタマの働きのモザイク的アタマの働きとなっていってしまう。
それゆえ、古代や江戸時代の、昔日の、東洋医学的(観念論的)なものの見方、考え方で世界のすべてに矛盾なく?筋を通して行けた時代・社会に生きた鍼灸の達人、東洋医学の大学者ほどの見事さは、そのレベルの量質転化・相互浸透は持ち得無いであろうということである。
しかしながら、現代において東洋医学的鍼灸を学び実践していくということの困難性はこれだけにとどまらず、もう一つの大問題がある。それは患者の側の問題(東洋医学に関わる随筆でも書くのならともかく、鍼灸、東洋医学は患者を抜きにしては成立し得ない、特に鍼灸実践については、であるのだから)である。端的には、現代という時代・社会に生まれ育った我々治療者の側が観念論的な東洋医学的鍼灸を信じることが難しい、信じきれ無いのと同じく、患者もまた現代という時代・社会に生まれ育っているのであるから、東洋医学的鍼灸の観念論的な説明は感情的に信じられ無い、受け入れがたいということが、当然にある筈である。(時に、患者に対して東洋医学的観念論的な説明をして、例えば「気が……」等と説いて、患者が話を合わせてくれているのを、患者がその説明を納得していると思い込んでいる、思い込みたい治療者を見かけるが……)
そうであってみれば、治療が順調に効果をあげている間は、「何かよくわから無い。怪しげな説明であるが効いているからそれなりに正しいのであろう。」となるとしても、治療が壁にぶつかって、なかなかに効果があがらなくなっていった時に、こういうことは治療の過程で度々起こることであり、それゆえに自身の為していることとその見通しをキチンと患者に説明できる必要があるのであるが、患者が治療者の治療を、説くことを信じて治療を受け続けることが可能なのであろうか?という問題が当然に起こってくることとなる。
これは、実際の治療経験をまともにそれなりの期間、例えば十年以上も持っているかたであれば、納得いただけるであろうが、同じ治療を施しても信じて治療を受けている患者と、半信半疑で、あるいは不信感を持って治療を受けている患者とでは、その効果は天と地ほども違う場合が往々にしてある。
これは狭義の手技療法述については特にそうであるし、鍼灸についてもある程度当てはまることと思う。(それだけに、患者との間に良好な人間関係を築くこと=医療面接が問診とは別のものとして必要とされるのであるし、治療者の修行=行いを納めることの必要性もそこにあると、思える)
話は少し脱線するが、江戸時代に草津温泉での湯治の逸話として、江戸の医者(おそらくは東洋医学の)にかかっても治ら無い、あるいは医者から見放された患者が、家や家財道具を売り払って、全財産を賭けて草津温泉の湯治に出かけた、と言う話を以前にテレビでやっているのを見たことがあるが、そこまで「草津温泉の効能=ご利益」を信じての湯治であれば、草津温泉との相乗効果で本当によく効いたのではないだろうかと思う。
それはさておき、要するに、治療者の側が自身の学ぶ鍼灸を信じ切れなければ、本当の一流レベルのまともな実力養成が出来難い(人間は(理論的に)正しいと信じられ無いものに、真面目に何十年も取り組み続けることが出来難い)のと同じくに、患者の側も、自身の受ける鍼灸の施述を信じられなければ、真面目に治療を受け続けられない結果として中途半端な治療となっていくしかない、中途半端な治療へとなっていく可能性が大であるだけに、現代において東洋医学的鍼灸を学び実践していくということは二重の困難性を持っている、ということになる。(では、東洋医学などとはスッパリと縁を切ってしまって、西洋医学的鍼灸、例えばトリガーポイントで良いではないか、ということにもなりかねないのであるが、それにもまた大きな問題があると思える。そこは改めて説きたい。)
現在の鍼灸の世界には、大きく二つの鍼灸の学びが(それゆえ実践が)存在する。一つは伝統的な東洋医学(それゆえ観念論的なもの)としての鍼灸(略して「東洋医学的鍼灸」と記す)であり、もう一つは西洋医学的な東洋医学(本当は唯物論的でなければなら無いのだが、現実にはタダモノ論的なもの)としての鍼灸(略して「西洋医学的鍼灸」と記す)である。
鍼灸学校ではその二つのありかたを教わり、卒業後=資格取得後は自身の興味と必要性に従って、そのどちらかを選択するか、あるいは(ほとんどの場合は)その両者をモザイク体としてツギハギにして自身の都合と必要性に応じて学びかつ実践していくこととなる。
その場合、単に効けば良い、患者が喜べば良いとするならば何の問題も起こらないだろうが、志あって(うっかりと?)実践的理論家あるいは理論的実践家であろうとするならば、例えば、鍼灸についてすべてに筋を通して考えていきたい、説いていきたい、実践していきたいなどと考えるならば、東洋医学的鍼灸を学び実践していくということは大きな矛盾を孕むこととなる。(西洋医学的鍼灸もまた問題が無いではないが、また別の次元の問題であるのでそれは改めて説きたい)
それは何かといえば、現代の日本に生まれ育ってきて生きている我々は、世の中が、日々の生活が科学万能となっている、科学技術の恩恵に浴した生活を送ってきているかつ送っているものであるから、大抵は科学的(唯物論的)な考え方が正しいとする=観念論的な考え方に反発する感情を育ててきているということである。(ここで科学的(唯物論的)であるのは、大抵が単なる感情としてであり、実態はまた別である。そしてそれはまた大きな問題である、と思えるのでここも改めて説きたい)
それゆえ、鍼灸学校で東洋医学や東洋医学的な鍼灸を学ぶと、大抵が「え〜!?そんな無茶な!」という思いとなり、場合によっては「とてもそんなことは真面目には信じられない!」となってしまって鍼灸の世界を去ることともなってしまう。
そんな感情をその人なりに抑え込んで、もっとも前にも述べた、鍼灸を単なる資格、飯の種と考えるならばそんな葛藤も起こらないのであろうが、の東洋医学的鍼灸の学びとなるのが通常である。
ではその場合、形の上で何とか東洋医学的な考え方に対しての感情的な反発を抑え込めれば、それで問題解決となるのだろうか、ここは自身でやってみれば、ことはそう簡単では無いということが次第次第にわかってくることになる筈である。
何故ならば、理論的なアタマ、学問的なアタマというものは、唯物論的な立場に立つにせよ、観念論的な立場に立つにせよ、その立場で世界全体を自身の専門をも含めて一つの筋道で説き(解き)きることによって出来上がっていくものである筈であるから、鍼灸では東洋医学的=観念論的に、鍼灸以外の日常生活を含む場面では科学的=西洋医学=唯物論的にというのでは、自身のアタマの量質転化・相互浸透も中途半端なモノとならざる得ないのだから、理論的、学問的なアタマの冴えというものは望むべくも無いということになっていく筈である。
こう説くともしかしたら、「自分は東洋医学をその観念論的な部分も含めて心の底から信じているから、すべてに東洋医学的に筋を通していくから大丈夫である。」との反論があるかもしれない。
しかしながらそれに対しては、古代の中国や江戸時代に生きているのならともかくも、我々は、現代の日本という時代・社会に生きているのであるから、それでは日常生活はどうするのであろうか?自身の乗る電車や車が走ることも、テレビやインターネット、メールも、電子レンジで夕食をチンすることも……と、日常生活の全てを東洋医学的に、観念論的に、例えば気の働きとして捉え返して、納得していく、いけるのであろうか?と。
要するに、我々は現代という時代・社会に生きている以上は、科学技術的な物の山に囲まれて、その恩恵に浴して生活しているのであるから、東洋医学的観念論的な考え方ですべてに一つの筋を通していくことは非常に困難である、東洋医学的(観念論的)であろうとしても、通常は観念論的(東洋医学的)と唯物論的(西洋医学的)との二つのアタマの働きのモザイク的アタマの働きとなっていってしまう。
それゆえ、古代や江戸時代の、昔日の、東洋医学的(観念論的)なものの見方、考え方で世界のすべてに矛盾なく?筋を通して行けた時代・社会に生きた鍼灸の達人、東洋医学の大学者ほどの見事さは、そのレベルの量質転化・相互浸透は持ち得無いであろうということである。
しかしながら、現代において東洋医学的鍼灸を学び実践していくということの困難性はこれだけにとどまらず、もう一つの大問題がある。それは患者の側の問題(東洋医学に関わる随筆でも書くのならともかく、鍼灸、東洋医学は患者を抜きにしては成立し得ない、特に鍼灸実践については、であるのだから)である。端的には、現代という時代・社会に生まれ育った我々治療者の側が観念論的な東洋医学的鍼灸を信じることが難しい、信じきれ無いのと同じく、患者もまた現代という時代・社会に生まれ育っているのであるから、東洋医学的鍼灸の観念論的な説明は感情的に信じられ無い、受け入れがたいということが、当然にある筈である。(時に、患者に対して東洋医学的観念論的な説明をして、例えば「気が……」等と説いて、患者が話を合わせてくれているのを、患者がその説明を納得していると思い込んでいる、思い込みたい治療者を見かけるが……)
そうであってみれば、治療が順調に効果をあげている間は、「何かよくわから無い。怪しげな説明であるが効いているからそれなりに正しいのであろう。」となるとしても、治療が壁にぶつかって、なかなかに効果があがらなくなっていった時に、こういうことは治療の過程で度々起こることであり、それゆえに自身の為していることとその見通しをキチンと患者に説明できる必要があるのであるが、患者が治療者の治療を、説くことを信じて治療を受け続けることが可能なのであろうか?という問題が当然に起こってくることとなる。
これは、実際の治療経験をまともにそれなりの期間、例えば十年以上も持っているかたであれば、納得いただけるであろうが、同じ治療を施しても信じて治療を受けている患者と、半信半疑で、あるいは不信感を持って治療を受けている患者とでは、その効果は天と地ほども違う場合が往々にしてある。
これは狭義の手技療法述については特にそうであるし、鍼灸についてもある程度当てはまることと思う。(それだけに、患者との間に良好な人間関係を築くこと=医療面接が問診とは別のものとして必要とされるのであるし、治療者の修行=行いを納めることの必要性もそこにあると、思える)
話は少し脱線するが、江戸時代に草津温泉での湯治の逸話として、江戸の医者(おそらくは東洋医学の)にかかっても治ら無い、あるいは医者から見放された患者が、家や家財道具を売り払って、全財産を賭けて草津温泉の湯治に出かけた、と言う話を以前にテレビでやっているのを見たことがあるが、そこまで「草津温泉の効能=ご利益」を信じての湯治であれば、草津温泉との相乗効果で本当によく効いたのではないだろうかと思う。
それはさておき、要するに、治療者の側が自身の学ぶ鍼灸を信じ切れなければ、本当の一流レベルのまともな実力養成が出来難い(人間は(理論的に)正しいと信じられ無いものに、真面目に何十年も取り組み続けることが出来難い)のと同じくに、患者の側も、自身の受ける鍼灸の施述を信じられなければ、真面目に治療を受け続けられない結果として中途半端な治療となっていくしかない、中途半端な治療へとなっていく可能性が大であるだけに、現代において東洋医学的鍼灸を学び実践していくということは二重の困難性を持っている、ということになる。(では、東洋医学などとはスッパリと縁を切ってしまって、西洋医学的鍼灸、例えばトリガーポイントで良いではないか、ということにもなりかねないのであるが、それにもまた大きな問題があると思える。そこは改めて説きたい。)