鍼灸(東洋医学)の世界では、「本治」ということが言われる。それは本当には何なのか?
鍼灸の世界では、施術、治療には本治と標治があり、本治は病を根本から治すものであり、標治は症状を治すものであるから、標治では本当には治った、治したとは言えないものである。
同時に、病の症状が強く出ていて、緊急を要する場合にはまず標治であり、標治ということも必要なこと、本治と標治はどちらが大事というものではなく、どちらも大事である、と陰陽論で説かれもする。
鍼灸学校ではそのように教わり、結果として大抵の生徒は、「そうか、症状を治すだけでは本当に治したとは言えないのか。それではやはり根本的に治すという本治が出来るようにならなければ!」とは思うものの、である。
そのように思って本治についてよく知ろうともう少し調べていくと、例えば、経絡治療では、「本と標を原因と結果のようにとらえている人がいるがそれは誤りである。本と標とは原因と結果というような平面的な関係では無い。標と本とは現象と本質である。目に見えない本質を(脈診によって)証として捉えてその証に従って治療するのが本治法である。」等々と。分かったようで分からない解説がされる。
では、本治、標治を原点にかえって考えてみると如何なることになるのか。
治療はそもそもが素朴なレベルでの、目に見えるものの治療=標治として始まる、そうとしてしか始まりようが無い。いきなり目に見えない世界へは入っていきようが無い。
そこからやがて人類の精神の発展とともに、また病の治療ということの積み重ねによって、目に見えない、感覚として捉えることの出来ない何者かが像として描ける、描けそうで描けない、でも形として見えるものの背後に存在するものがある。
それを治療してやることは症状の直接の治療では無いけれども、それは症状として現れていること、のみならず生きるということそのものを支えるものであるから、それを治療することは結果として、目に見える全てを治療することになる=本治。
これは古代中国の世界観、現実の皇帝の統治する世界の背後に天(帝)の世界があって、それが現実の世界を動かしているというような二重構造。
(スマホではこれ以上、思い、考えが深まっていかないので、ここまでに......)