奈良の戦争遺跡を訊ねて (2)
興福寺の境内に入ると、日曜日とあって外国からの観光客の姿も多かった。穏やかな冬の日差しを浴びて、シカと戯れたり、仲良く二人で自撮りするなど、いかにも平和な光景である。
しかし、先生のお話を聞くと、ここにも戦争の爪痕が残っていることに気付かせられる。北円堂の前に防空壕があったことなどを伺いながら、南大門跡の「扇芝」を見下ろす中門跡に来る。
現在は毎年5月第3金、土曜日に、ここで「薪御能」が行われているが、明治以来途絶えていた。それが1943年、「決戦下神事御能」として復活した。「敵国降伏祈願」など国威発揚に利用されたのである。
東金堂前の石灯籠横にある弘法大師手植えの伝説を持つ「花之松」。昭和12年に枯死したので、現在ある松が植栽された。その横に立つ由来を記す碑は何度も見ているが、碑文の最後に「紀元二千六百年昭和十五年三月吉辰 花之松献木翼賛会長 奈良県知事…」の文字があることを始めて知った。昭和15年(1940)は太平洋戦争の始まる1年前。私は小学校入学前だったが、神武天皇即位から数えて2600年目ということで、各地で奉祝行事が行われたことを子供心にも覚えている。この年は辰年で、今の長居競技場近くの桃ヶ池の中に、大きな竜の模型が横たわっていた。その前にも確か「奉祝・紀元二千六百年」の文字があったようだ。「翼賛」という言葉は今は殆ど聞かないが、当時はナチスに倣って一国一党の「大政翼賛会」組織が幅を利かせていた。
昭和19年、各地で空襲が激しくなると興福寺の建物にも偽装網をかぶせ、多数の国宝を個人宅などに避難させた。
余談であるが、偽装網といえば我が母校の四条畷高校の校舎にも、まだ乳牛のような白黒模様のカモフラージュが残っていたことを思いだす。
昭和20年には奈良公園や東大寺の松を造船用に供出することを軍から命じられ、これは知事ら関係者の努力で回避されたが、松脂が採取された跡は今に残っている。松脂からは飛行機のガソリン代わりの燃料となる油が取れた。本来は「松根油・しょうこんゆ」として切り株などから採取されたが、実用化には程遠かったらしい。疎開した河内では、裏の山に行って松の幹に縦に一本、あとは交互にV字型の傷をつけて流れる樹液を缶詰の空缶に受ける。朝、小学校の校庭に置かれたドラム缶に集めるのだが、果たして役に立つほど集まったのか疑問に思う。
また旧帝室博物館(現国立博物館)には地下に収蔵庫が設けられ、東京の帝室博物館から国宝などが疎開してきた。これも東京などに比べて奈良は安全と考えられたためだろう。
公園を出て春日大社一の鳥居前を南へ向かう。横のモミジが赤い鳥居と色を競っていた。