ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の戦争遺跡を訪ねて(4)

2015-12-14 12:09:01 | 奈良散歩

様々な感慨を胸に奈良ホテル本館を出て、旧大乗寺庭園を見下ろしながら入口へ歩く。大乗院は興福寺の門跡寺院で、足利義政の命を受けた善阿弥が手掛けた庭園は国の名勝になっている。



門の手前の守衛室の屋根も苔むして風情がある。
 
次の遺跡を訪ねて赤い鳥居の瑜伽神社の前を通り、高畑町の垢かき地蔵、清水町の弘法大師爪かき地蔵、笠屋町の鎧地蔵と巡って、教育大前の県道に出た。この通りは通称・連隊通りと呼ばれるだけに、周辺には軍人会館跡など戦争遺跡が多い。
 

現在は奈良第二地方合同庁舎がある場所には、「奈良聯隊区司令部」があった。奈良県の青年たちは20歳になると全員、ここで徴兵検査を受けたのである。因みにWikipediaなどの資料によると、私たちがよく耳にした甲(身体頑健~健康)・乙(健康)・丙種(極めて欠陥の多い者)の他に丁(目・口が不自由な者、精神に障害を持つ者)、戌(病中、病後)の5種の判定区分があった。春に徴兵検査で甲、乙種に合格した人は翌年1月に入隊した。戦争が激しくなると現役兵だけでは足りず、予備兵(入隊期間を終えた人や丙種合格者など)も動員されることになる。この招集令状を発行するのも区司令部だった。令状には、「赤紙」と呼ばれてよく知られている「臨時招集令状」だけでなく、青紙(防衛)、白紙(教育)もあったという。

道路に面した敷地の南西隅には、昭和44年(1969)建立の「奈良聯隊記念碑」が建つ。頂いた資料を後で読むと碑文には、(以下抜粋)『この兵営に駐屯した将兵の数は延べ七萬に及び…支那事変に引き続き、太平洋戦争に参加し…赫々たる戦果を挙げた。また当時の兵営は…進んで国難に赴き従容として死につく大和魂の練磨と武技の鍛錬に精進した誠に異議深きところであった。‥』と四記されている。残念ながら、先の戦争への反省や亡くなった人たちへの思いは一切記されていない。その歴史認識や建立の意義を考えると、時代錯誤というよりも「またあの時代に…」後戻りしていく恐ろしさが、ひしひしと迫ってくる。 





奈良聯隊の跡は現在奈良教育大学の敷地になっている。中庭で昼食、小憩の後、構内に残る戦争遺跡を吉川先生のご説明で見学する。まず敷地南西隅の弾薬庫跡へ。周りに土堤を造り、屋根の鬼瓦には陸軍の徽章である一つ星を付けてあったが、ごく最近に屋根は葺き替えられ、建物の前の部分も撤去されている。(写真上は昨年、金田充史氏撮影)。
 


元衛兵所のあった守衛室横を右(東)へ曲がり、右手前方に高円山を見上げながら歩く。突き当たりは銃工場があった処で、左に兵器庫、右に酒保(下士官兵への食品、日用品の売店)や下士官集会所があった。古い桜の木の残る中営庭(兵営の中の広場)を通り、球技をしていた障害児たちと挨拶を交わしながら、東北隅の広場にくる。ここは将校の集会所があったところで、前に生駒石が散乱して泉水庭園の面影を伝えていた。
 


左に折れて付属小学校校舎横を西へ歩く。煉瓦積みの構造物があり、危ない足取りで急な階段を登ってみたが、狭い最上部には何もない。高射砲が据えられていたともいわれるが、実際のところは用途不明だそうだ。兵営への商人が出入りした北門は当時のまま残されている。

その西側にある美しい煉瓦作りの建物は元糧秣庫。糧は軍用の食料、秣(まつ)は「軍馬のまぐさ」のこと。

その内部は教育資料館として改装されているが、外観は往時の面影をそのまま残している。

一風変わった煉瓦の積み方が興味深かった。