信の世界を追求すると、どんな経路を通ったにしても、つまりは宗教の世界に至る。どんな原理でも主義でも、それを信仰の対象にすると、実証可能な合理性から遠ざかり、まずは信じることを強調する宗教の装いに変容する。
人は同時に2つの道を歩むことはできないから、一つの信念なり信仰なりを貫こうとすれば、他の道の路傍に咲く花を楽しむことが難しくなるのも道理だろう。
しかし、人間が何かを信じることなしに生きることができない存在である以上 なんらかの「信仰対象」を求めるのも、きわめて自然な心情の発露だ。
そして、私の拙い観察では、世界三大宗教といわれるキリスト教やイスラム教や仏教での原初の内容は、大方(おおかた)において、合理的で実用的であるという点でよく似ている。
キリスト教とイスラム教はもともと同じ一つの神の啓示から出発しているが、仏教では呆れるくらい多くの神や如来が登場する。儒教の始祖・孔子は仏教の始祖・釈尊より百年ほど前の人物で、これがまた興味深いことに、その教えの本質的な部分において、キリストやムハマンド(モハメット)などと同じようなことを言っている。
その一つは、いわゆる「黄金律」と呼ばれるもので、内容は以下の通り。
イエス・キリスト:「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節)
孔子:「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語 巻第八衛霊公第十五 二十四)
ユダヤ教:「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(トビト記4章15節)
ヒンドゥー教:「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』5:15:17)
イスラム教:「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)
前置きがずいぶん長くなった。すでに蛇足になるような様な気もするけど、5年ほど前に、私は次のような一文を書いている。
「私が、あえて言葉にすると“宗教”というものを、どうしようもなく必要とした時は、野外に出て星を描く」
<Sッホ
When I have a terrible need of - shall I say the word - religion. Then I go out and paint the stars.
-Vincent Van Gogh
狂気の画家と言われるゴッホの言葉だ。
あらゆる自然の生きものは「信じる」ことによって存在し活動している。樹木は大地を信じ、魚は海洋を信じ、鳥は大空を信じ、子供は親を信じることで、自ずと成長しその分に応じて、この世界での使命をはたすことができる。
この場合「使命」とは文字通り「命を使う」ことであり「生きること」と同義だ。日々大自然の恵みと厳しさの中で生き死にする彼らの世界に、疑いや不信の入り込む隙間はないはずだ。
さて、元々は自然的存在である人間の世界はどうであろうか。人間の作った社会や国家はどうであろうか。あらゆる自然存在が相互信頼の上に成り立っているのに比べて、あまりに嘘やまやかしが多すぎはしないか。それに従って、疑いや不信という伸びやかな成長にとっては阻害要因ともなる不幸が多すぎはしないか。
西洋近代は神に対する疑いと人間理性に対する信頼から始まったとされるが、日本の近代は堕落した仏教を中心とする宗教界への疑いと明治政府が持ち上げた神道への信頼から始まったと言えるのかもしれない。何を疑い何を信じるかによって個人や集団の命運が決まっていくのも当然だろう。
いずれにしても、どこまで行っても大自然の一部である人間が、まっとうに存在を続け成長していくためには、信じるに値する何かが不可欠で、人並み外れて感受性の優れた件p家が、嘘まやかしだらけの人間社会や神の世界に愛想をつかして、天空の星々に祈りをささげようとしたとしても何も不思議なことではない。