昨日、いくぶん面唐ュさいこと考えていたら、ふたたび、若くして逝ったT君のことを思い出した。青春時代の彼は、私が還暦に近くなっても、二十歳過ぎの、あの同じ姿で現れる。有り難くもあり、悲しくもある。
彼が私に与えた影響はほとんど計り知れないものがあり、彼が静かな口調で語った言葉の断片は、ことあるごとに私の脳裏に蘇る。その一つが「他人(ひと)の身になって考えろ」ということだった。
つまりは「思いやりの心を持て」ということだ。これは西洋風にいうと「愛」であり、仏教的「慈悲」を和風に言い換えたものに他ならない。
こんな、ある意味深遠な教えを、わずか10代の若者が真顔で語り、実際その指針にマジメに従って生きていたことを、私はよく知っている。T君とはそういう男だった。
そして、それは昨日書いた世界宗教の「黄金律」そのものでもある。「人を思いやってその身になる」とは、愛や慈悲の発露そのもので、キリストと孔子は、まったく同じことを反対側から表現したにすぎない。
ただ、その中に釈尊の言葉が入っていないのは、彼の慈悲が人間に限らず全ての「生命」に向けられていたからで、もし彼が同様のことを言ったとしたら、「自分がしてもらいたくないことは、全ての生き物たちに対してもしてはいけない」となったに違いない。まあ、初期経典の中には似たような言葉がたくさん出てくるのではあるが・・・。
私は自分のことを相当に頑固な合理主義者だと思うことが多い。しかし、自然の世界と長いこと付き合っていると、この広大な世界の中で、小さな自分の理性の及ぶ範囲などはたかが知れているという、当たり前の事実に感動したりもするのである。
たぶん、つづく・・・。