庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

べサニー・ハミルトン

2012-06-18 20:20:00 | 海と風
この隻腕(片腕)の女性プロサーファーについては、だいぶ前にちょっと耳にしただけで、詳しいことはまったく知らなかった。ところが、最近、彼女の自伝的映画が出来上がったという話しや、現在22歳の彼女が10代で自伝本を書いていたという事実を知るに及んで、私の関心は一気に膨らんだ。 

サーフィンの世界については、私は、四半世紀も前にウィンドサーフィンにのめり込んでいたころから大いに興味を抱き続けており、現在の乱読書一覧の中には、ジェリー・ロペツの自伝本や、やはりアメリカのサーファーが書いた『キリストの西・・・サーフィン・科学・信念の起源』(寛太郎的適当訳)なんてのもある。 

どこかで触れたかもしれない。いわゆる20世紀の近代サーフィンの神様は、オリンピッック水泳金メダリストとして、かの国で英雄となった、あのデューク・カハナモクが代表格だけれども、もうちょっと深く歴史をたどると、数百年前のハワイ文明からさらに古代ャ潟lシア文明にまで行き着き、もっと行くと、太平洋の西の端を通って至る日本列島の石器時代や縄文文化との関係性まで浮かび上がってくる。 

私の想像力の遊ぶところこれに過ぎたるは無し・・・とても言いたくなるような世界の一つなのだ。 

サーフィンと風との関係は、ウィンドサーフィンやカイトサーフィンほどは親密ではないが、もちろん無関係ではない。津波や潮流以外のさまざまな波は、偉大なる風の神の成せる造形で、ある程度の技量を持ったサーファーにとって、例えばオンショアとオフショアの違いはライディング条件の決定的要素にもなる。 

私はサーフィンをしたことがないではないが、とても「できる」とは言えない。文字通り、ウィンド・サーフィンの中にサーフィンの一部は含まれていたし、いっぺんに幾つものコトに、半ば命がけで打ち込めるほど器用な人間でもなかった。それは現在取り組み中のカイト・サーフィンも同様。この中にも確実にサーフィンの要素があり、その多様なスタイルにサーフ・スタイルがあるのは周知の通りだ。 

この興味深い女性については、いつかまた触れることがあるだろう。今夜はとりあえず彼女の動画をYouTubeから拾ってUPしておく。

別府 一陣の風

2012-06-17 21:41:00 | 海と風
いくらか西風の匂いがしたので、別府に行ってみることにした。カメラの調整などしながらF君、Yちゃんと風待ち一刻。走れなくてもちょっと泳いで帰ろうなどと、プカプカ浮いていたら、運よく一陣の風が入った。なんとかワンレグ走っておしまい。 

今回のカメラ位置はブライダルから2mほど、たしかにこれでは周囲の風景はほとんど入らない。鳥の目になるにはやはりカイト本体に取り付けるしかないのかなぁ・・・ラムエアでどうすればいいか・・・パラ・ウィングなら話は早いのだが、カイトウィングで同じことをするとどうなるのか・・・これもまた、やってみないと分からない。<iframe src="http://connect.garmin.com:80/activity/embed/189772336" frameborder="0" width="465" height="548"></iframe>

酔人の言い訳

2012-06-16 14:29:00 | その他

昨日のブログを読み返していたら、まあ、幾つになっても跳び上がるのが好きな酔人らしく、論理の跳躍(ちょうやく)が多いこと・・・何ヶ所か手を入れてはみたけれど・・・およそヨッパライいが、ちと堅いことを書こうとすると、こういう分かりづらいヘンテコ文章になるという、良い見本みたいなものであります。

大体のはなし、難解なお話しや文章ができあがる理由は、当の本人が言いたいことを良く理解してないからで、政治屋の「遺憾に思います」とか役人どもの「善処します」とかほどタチが悪くはないにしても、その責任は、どんなに贔屓目(ひいきめ)に見積もっても、九割がたは話し手や書き手にあるのであります。

しかし、今日は梅雨空、風の神も静かで、若干眠たいものの、寝ない限りはヒマであり、ヒマなことはじつに良いことであります。「何もしないことはまったく良い!」ドリトル先生の声が聞こえてきそうであります。

「そんなこと言いながらオマエ、また変な駄文を書こうとしているではないか、ヒマが好きなら少しはじっとしとらんか!」今度はマンボー先生の声が聞こえそうであります。

運悪くこんな記事が目に留まった方々には、お気の毒としか言いようがないけれども、まあこれも何かの縁とご容赦いただいて、先を続けることに致しましょう。



教育 1

2012-06-15 14:29:00 | 追憶

教育・・・大きく重いテーマだ。世界中でどれほど多くの父や母や先生方が、この問題の周辺で苦悩してきたか、そしてご苦労されているか・・・想像するに余りあり、私もその一分を経験している。

人は無知で生まれるが愚かに生まれるわけではない。人を愚かにするのは教育である」と言ったのは、イギリスのバートランド・ラッセルだった。(元は数学者で後にノーベル文学賞作家でもあった彼の肩書きを全て並べるには骨が折れる。彼はいくらか不器用な教育者でもあった。)

無知が愚かで不幸であるとは、私もまったく思わない。何も知らない(かもしれない)子供たち、海を行く魚たち、空を舞う鳥たち、大地を駆ける動物たち、そしてモノ言わぬ植物たち・・・彼らは、人間の基準では「無知」かもしれないが、まず不幸でないという事実は、ただ「美しい」としか言いようのないその姿態、「見事」としか言いようのないその生態を、少し注意深く観察すれば、たちまち了解できるだろう。

おそらく人間だけが、驚くほど賢明にもなり愚劣にもなり、従って幸せにもなり不幸にもなり得る、実に珍しい種類の動物であることは、すで歴史がくり返し証明しているし、その主たる要因が、人や社会や国家による教育であることに、疑いをはさむ余地はないように思われる。

 (幾分メンドクさい話はまだつづく)



水上リラックス法

2012-06-13 21:07:00 | 海と風

今日の堀江海岸も例の「ウィンド・グラジェント」が、明確に現れていた。かなりの引き潮時ということもあり、波打ち際近くには相当量の「風だまり」もあった。 

この「風だまり」もウィンド・グラジェントの一種なのだが、ある程度の角度を持つ斜面に向かって吹きつける空気(風)が、摩擦抵抗によって、その斜面と平面(海面)が接する線上に滞留する現象で、斜度が大きくなるほどその量も大きくなる。強風時の家屋の軒先に身体を張り付けると、風がずいぶん弱まるのを感じたりするのは分かりやすい例かもしれない。 

その上空には通常、なにがしかの斜面上昇風が吹いている。私はめったに海岸近くでハイジャンプはしないのだが、今日は浜がガラ空き、引き潮時でもあったので、試しに、沖合いでのジャンプと、どの程度の違いが出るか確かめてみようと思いついた。着岸直前、高めのフロントループをやってみたら、結果は予想通り、明らかな違いがあった。つまり、同じ動作で、より高くより長い滞空時間を得ることになった。

今日はアンダー気味の風模様だったのでどういうことはなかったが、強風時にこういうことをすると、たぶん跳びすぎて、かなりきわどい着水ならぬ着陸になる可能性が充分ある。風は大概どこでも、横にも縦にも吹いていることを忘れない方がいい。

ともあれ、海水温もずいぶん上がり、海上をノンビリ漂うには気持ちの良い季節になった。そこで、こないだから構想している「水上リラックス法」を近々実行しようと思っている。 

私のことを良く知る方々は、何も案ずることはないとは思うが、これからしばしば、海上高くカイトが停まっていて、私の身体が眠ったようにプッカリ浮いて長時間まったく動かなくても、私は死んでいるわけではない^^; 決して無用な心配をしないようにお願いしたい。
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金(かね)と金(きん)

2012-06-12 11:15:00 | その他
「金(かね)になるだけが仕事ではない」・・・あの有名なTVドラマシリーズ『北の国から』の最終話「遺言」の一シーンで、生来ナチュラリストの倉本聰が、唐十郎演じる北国の漁師・トドおやじに語らせた文句だった。

あれからもう10年も経つのか・・・私はこのシリーズを、その構成において、配役において、そして根底を流れる思想性において、日本TVドラマ史上、最高傑作の一つだと思っている。想いを同じくする方々も少なくないだろう。

そして、さらに私は思う。「金(かね)になるだけが仕事ではないのは無論、真に優れた仕事はやがて必ず金(きん)になる」

こないだNHKの番組で、スペイン・アルタミラ洞窟の動物壁画をあらためて観た。最近のTV映像は急速な技術革新のおかげで、以前よりずいぶん鮮明に鑑賞することができる。Reproduction_cave_of_Altamira_01s1024pix100kb.jpg

はるかな過去の石器時代に、単なる物品交換の便を図るための貨幣なんてものは存在しなかった。もちろん現代のバカに複雑な貨幣制度やお金(かね)なんてものも。かの人物は、何らかの報酬を得るためではなく、純粋な楽しみ喜びのために、この大作を描いたにちがいない。

しかし、ピカソをして「こんなスゴイ絵画は現代の画家にはとても描けない!」と言わしめた、驚くべく優れた仕事がそこにあった。万年を経ても決して朽ちることのない金(きん)のような仕事。

ところで、仕事の和読みは「仕(つか)える事(こと)」だ。ヒトが自分以外の何か誰かに仕(つか)えるためには、上下・高低の身分的な階層が条件になるのだが、そういう社会構造が発達するにつれて「仕事」という概念も定着したことは容易に推定できるだろう。

もっとも、仕える対象がもっと形而上(けいじじょう)的な、普通の目には見えない世界、あるいは、自分の好みの世界である場合は、話しが大きく違ってくる。生業(なりわい)が趣味になっている人、趣味が生業になっている人などは、わりあい稀(まれ)なこの種類だ。

英語でワーク(work)とビジネス(business)が区別されて使われるのにも、それなりの歴史的背景があり、workはwalk(歩く・動く)が源であるに比べて、businessとはbusy(忙しい・手がふさがっていて他に何もできない)の派生語にあたる。

日本語にも「働(はたら)く=人が動く」という言葉が古くからあり、漢字の成り立ちとしても「忙」は「心を亡くす」ことが原義だ。このあたりも分かりやすく符合していて面白い。

世間がどんなに不景気になって、いわゆる「仕事」がなくなっても、ヒトは生きて、好きなことで体や頭が動いている限り、「働(はたら)く」のを止めることはあり得ないのである。



縄張り争い

2012-06-11 20:06:00 | 政治

私にとって、政治の世界に関わるモノゴトの多くは、アホらしくてなかなか話題にする気にならない。それは何故か・・・。そこに「権力欲」というアホらしくもやっかいな人間的宿業が付いてまわるからだ。

例えば、近頃巷間(こうかん)はやりの「尖閣問題」・・・これは深刻な国際的・政治問題だと思われがちだが、そんなことはない。少し乱暴な言い方をすれば、ヤクザの類(たぐい)の単なる縄張り争いの延長に過ぎない。

自然本来、誰のものでもないものを、日本は日本のモノだと言う。中国は中国のモノだと言う。台湾は台湾のモノだと言う。それぞれが勝手な権力主義的我欲を恥ずかしげもなく披露しているにすぎない。

本物のヤクザは、深遠なる「仁義」という、カタギの方々も見習うべき倫理規範の一分(いちぶん)を心得ているものだが、現在の政治家にそんな奇特な徳をそなえた人物など、まずはいない。

国際問題とは国家と国家の際(きわ)で発生するモメゴトを契機(けいき)とする。しかし、そもそも、その国家とは「領土国民主権の3要素で成立する」・・・なんて勝手なことを決めたのは一体誰だ? どんな賢明な存在がどんな深遠な知恵を持って決定したのか? 多くの法律家は「そんなことは常識中の常識ではないか」・・・と、それぞれの用語についてもっともらしい解説を始めるだろう。 

しかし、ニーチェのような天才狂的哲人はおいといて、この問題に、絶対の自信を持って間違いなく答えられる人は、この人間世界にはたぶん一人もいない。人間は全知全能の神ではなく、かけがえの無い地球上の生命(いのち)たちは人間だけではないのだから。 

それではどうすればいいのか?・・・結局は、一人ひとりの人間がもっと心を開いて、日常的には当たり前の「思いやり」の心を、より賢明に応用すればいいだけの話だろう。とりあえず、日本の漁師と中国の漁師が、一晩でいい、同舟(どうしゅう)の仲になったら、少なくとも漁業権問題はたちまち解決する・・・楽観に過ぎるだろうか? 

いくらかやっかいなのは、(悪しき)商業主義と直結した鉱物資源の問題。しかし、通常、強欲を善しとする大資本家たちが、「知足・足ることを知る」という、何千年も前から聞かされている教えを素直に実行して、はるか多くの人々に範を示せば、やがては解決する。かなり見通しの暗い希望ではあるが・・・。 

そういえば、昔、台湾の高等専門学校(15~20歳)の社会科の授業に招かれた際、賢(かしこ)そうな一人の生徒から、まさに「尖閣諸島はどこの領土だと思うか?」・・・という真面目な質問を受けたことがある。大陸中国との関係で、かの国はまだ臨戦状態にあり、一般道を平気で戦車が走っていた。 

私は少々面食らいながら、「とりあえず国連に解決をゆだねるのが最良の方法だと思う」と答えた。もっとハッキリした反応を期待していただろうその青年生徒は、ちょっと複雑な失望の色を顔に浮かべた。現在のところ、国際連合に大きな力はない。しかし、私は、その可能性に少なからぬ希望を抱き続ける。

とにもかくにも、日本でも中国でも台湾でもどこでも、モノゴトを合理的に考えることのできる普通の人たちは、愚劣の先端を走る政府や政治家の喧伝(けんでん)に、簡単には騙(だま)されてはいけない。 

自分自身の頭で考えることは時にメンドクサイもので、だまされ続ける方が楽な場合も多のだろうが、その種の楽は、次に来る更に大きな苦しみの原因になる・・・と悟っておいた方が無難だろう。この国でもあの国でも、ほんの70年ほどの前の歴史が証明する通り。

かくして、アホな話題にここで言及するのは、結局、この酔人もアホの一類だからである。



女は強し

2012-06-10 22:42:00 | 海と風
昔、ある聖人が「女とは男に従いながら、男を従える身である」と説いた。これは、まったく、事実だ・・・と近頃、とみに思う。私が一種の敬意を含んだ興味を持っている、女のような男や男のような女(オカマ・オナベ)については、ここでは触れない。 

昨日は家内と約束事をしていて、海の方は2時間ほどで切り上げる予定だった。ところが、久しぶりに塩屋のコンディションがなかなかよろしく、未熟なループ技でカイトがヘタに折れて泳いだりもして、ずいぶん遅刻することになってしまった。 

「これはもう、謝るしかないな」・・・いろいろ言い訳を考えながら帰りを急いだ。そして、出てきたコトバが・・・「言い訳はしませんが・・・ともかく・・・スイマセン^^;」・・・結果、ほとんど責められることはなかった。 

もう30年近い付き合いの中で、すでに私の「いい加減なところ」を悟ってくれているらしい・・・まことにありがたいことです・・・拝(はい)^^;<iframe src="http://connect.garmin.com:80/activity/embed/187463490" frameborder="0" width="465" height="548"></iframe>

使わないと忘れる

2012-06-08 23:30:00 | 海と風
先日の別府では、久しぶりにGoProカメラをフロントラインに付けて自分撮りをしてみた。しかし、取り付け位置が低すぎて、リーシュラインとまともに干渉してしまい、ほとんど見るに耐えないものになっていた。 

それでも、はじめの辺りはまだマシで、カメラが近いことの利点で、客観的に身体のどの部分にどんな(ムダな)力が入っているか・・・などがより詳しく見てとれて参考になる。全体構造が単純なこの種の道具に余計なモノをくっつけると、気分的に邪魔になって仕方がなくなるのが通常だが、たまにはこういう作業も悪くない。

別府 初心にかえる

2012-06-06 20:59:00 | 海と風
 別府はきれいな西風が7m前後、昼過ぎから夕方まで入った。ここのところ、身体の動きが本調子でないので、毎回の走行距離を20km辺りに設定しながら自制していた。今日は久々にナイスなコンディションに恵まれて50km以上走ってしまった。
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このスメ[ツも本格的に始めてそろそろ5年になり、およそ基本的な動きは身に付けたつもりではいるのだが、おとなしく海面に張り付いている時はともかく、跳んだり回ったりすると、まだまだ身体のあちこちに余計な力を使っていることがよく分かる。

しかし、これは当面仕方がないことなのかもしれない。一つのことが楽にできるようになると、さらに次のステップを試みたくなる。新しいことは常に未熟から始まるのだから無理やムダが多いのは当然だ。どうやらこの酔人には、本当に好きなことに一度手を付けると、自分の可能性のフンズマリまで突き進んでしまう・・・という悪癖があるらしい。

「その悪癖を直す最良の薬が中庸の徳なのだぞ・・・そろそろ分かってもよかろうに」・・・などと孔子先生に怒られそうだが、「先生、分かるということと、できるということは違うのです。とりあえず初心に帰ることぐらいで勘弁してください」・・・とでも応えてお茶を濁すことにする。
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