katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

くじら教室

2016-12-27 08:20:34 | モザイク教室
今日はくじら教室。広げる話もあるにはあるが、そもそもくじら教室ってのは、モザイクは2の次であって、真摯に向き合うってスタイルなんで、ある意味こちらもとても厳しい。だからこそ掘り下げ過ぎると、余りにも厳しい話になっちゃうので、軽く触れると・・・。

例えば単なる技術を習うってだけなら、この道具をこう使います・・・やら、この素材は・・・とか、まっ生きている取扱説明書みたいな役目になるんだろうね・・・先生ってのは。つまり楽しくなくても成立する。ただ楽しく・・・となると、単に説明が上手いだけでは成立しなくなる。

これを普通の店舗の板前さんとマグロ解体ショーの板前さんとの違いみたいな例えると、普通の板前さんなら腕だけ優れていたら、後は礼儀以外は左程必要は無くても何とかなるだろうが、解体ショーではいくら腕が良くても話にならない。そもそも人を呼び込めないと・・・・。

つまり腕の前に呼び込めるだけのトークやパフォーマンスが要求される。見せる部分が必要って事。それは何でも同じで、黙って上手い書道と、音楽や威勢の良い声などで大きな文字を書くって書道だったり、座ったまま演奏する吹奏楽部と立ったり踊って見たりする吹奏楽部だったり・・・・。

つまりどちらも同じ分野であっても、必ず同じ先生とは限らないように、モザイクって分野であっても、クラフトと言う日常使うものもあれば、似てるって言う有名なモチーフの模写だったり、遺跡のような神々しいものもあるだろうし・・・当然芸術なんて分野になるものもあるだろうし・・・。

単なる取り付けみたいなものもあるし、そうそう真似など出来ない・・・なんてもんもある。つまり先生なら何でも出来るとは限らないだろうね・・・きっと。そうなると、生徒さんは何をお望みなのだろうか?・・・になる。

良く先生が合わないなんて表現を聞く事があるが、逆な言い方をすれば、生徒さんはどんな事をお望みなのか?なのだから、合う合わないなんて表現は、具体的に言えばただそんな事だったりするだけなのね。ではそれを踏まえたくじら教室って?・・・となると、単にモザイク教室では無いのね。

逆にモザイクとしての技術は一切必要としない・・・って言う指導も出来ないと、くじら教室は成立しないのね。例えばくじらの場合、俳句をやっているのだけれど、モノつくりなんてくくり方をすれば、所詮人間の作るモノなのだから、考え方は一緒な訳なのね。しかもオリジナルなのだから。

そもそも作品は自分自身なら、オリジナルって言う自分自身って何なんだ?って話になる。最初は既製品にちょこっとあしらうだけで、オリジナルって風味で楽しめる。そこをとょこっとからだいぶ・・・に変えたら、最初よりは変わった事にはなる。けれど切らずに張るだけでは、技術の向上って言うのは

モザイク自体の向上では無く、パソコンでの図柄の向上になるだけで、ただ張るだけで継続するには限界がある。そうなると、小さいものを作るには切るって技術が必要になる・・・みたいな、簡単な話で、どうしたい?って事さえ決まれば、教える事もはっきりする。

ではこれを踏まえて戻すと、俳句って何?って事になると、他の分野のように、ちょこっと変えてオリジナルって言い切れるかな?あははは。無理無理。それは何処まで行ってもパクリ。つまり完全オリジナルなのね・・・。しかも17文字の字数制限。まっ、つまりコースタ―作りみたいなもん。

狭い規制の中での自分らしさの追求になる。となると、モザイクならいかに繊細に切れるか?なんて技術の会得が必要になるだろうね。逆も真なりなら、パソコンでの図面の技術の向上をし続ければならず、後は並べるだけ。つまり純粋なモザイク技術よりも設計みたいな向上が必要になる。

要するに大工さんとして木を切ったり、組み立てたりって言う側か、設計ってデザインの方側か?って事なったりする。じゃ俳句は?そうなのね、何処まで行っても当てはまらない・・・つまりパソコンに頼れるのは文字を綺麗に入れ込むくらいなもので、紙に書けば済む事。

要するにいにしえの時代のままであって、言葉が増えた分だけ使える単語があるって事。この素材を使って17文字で何を訴える?自分らしく・・・って話。要するに自分らしく言いたい事が無いと、小手先のテクニックを習った所で一体何を伝えたい?って最後は自分の問題になる。

つまりオリジナルとは?だから自分自身なのね・・・けれど、技術が無いと言いたい事が確立していたとしても、テクニックが無かったり、基本を知らないと、17文字なんてどうでも良くなると、もはや俳句じゃなくなる。それを基本を心得てからの字余りはテクニックになるけれどね。

つまりここでも着崩し的な話で、基本を知っての崩しが着崩しでお洒落に繋がるものが、基本無しで着崩したものを見て崩せば、単にだらしなくなるだけ。ってここまでをオリジナルの基本とするのなら、ここまでもオリジナルを目指す人達には当たり前、つまり普通になる。

つまりこんな話は当たり前であり、もっともっと細分化して、細胞分裂のように枝葉になって行くような話になると思うのね・・・だからプロのやり取りって言うのは、緊迫感があり、それを見る人達の感動を呼んだりするものなのじゃないのかな?・・・・。

つまりくじらが楽しい俳句を目指すのなら、そんな事は全て必要じゃなくなるけれど、もしもっと上を目指すのなら、当然こんな事は当たり前な話として必要となると思うのね。それこそが人とは明らかに違うオリジナルってものになるんじゃないのかな?・・・・

ではそれを昨日の晩のニュースにちなんで話せば、SMAPが最後となった。みんなの好きな世界で1つだけの花・・・オンリーワンなんて言葉があるが、そもそもオンリーワンって何?って話。ナンバーワンにならなくて良いって・・・・勘違いしてはいけないなぁと思うのは、オンリーワンって、

真似がそう簡単に出来ないもんなんじゃないのかな?・・・簡単に盗まれるものはオンリーワンなんて言わないし、言えないのね。そもそもアイドルはカッコ良いもので、可愛いもので、ずば抜けてて、隣近所にはいなかった。けれどいつしか隣にいるような人が好まれるようになった。

けれど、・・・のようなであって、いないのね・・・それでもそう簡単には。それを歌が上手いとか、踊りが上手いとか、技術の優れている人はいくらでもいる。けれど、本当のオンリーワンはナンバーワンを目指して疲れ果ててしまった人が見つけた生き方・・・それこそが真のオンリーワン。

そう思うのね。しかもそれを継続したからこそ、老若男女に知られる愛される、そこまでのパフォーマンスが出来る個々の集まり、だからこそオンリーワンなんだと思うのね。他のジャニーズのグループが20年続けばそうなるか?となると、疑問にもなる。

けれど野球界に江川卓って人がいるが、200勝した訳じゃないし、辞めた後に監督もコーチにもなっていないが、記録では無く記憶に残る人もいる。こんな人もやはり逆も真なりで、これもまたオンリーワンだと思うのね。どちらも人に惜しまれつつ去って行く・・・。

そして思い出と共に遠い記憶になって行く・・・・昨日見ていて凄いなぁ・・・・あれだけ惜しまれつつ、辞めるを選択するんだなぁってね。理由は本人にしか判らないが、事実はどんなにファンが引き留めても辞めるの選択・・・。

俺は数少ない人に続けられるわずかな望みを与えられて、続けている事を思うと、素直にうらやましいし、凄いな・・・とただただ1つの時代の終わりとして見ていた・・・・もし芸術なんてもんを目指すのなら、ファンでも無い人までも巻き込むsmapみたいに、名前1つで曲1つで、誰だかが判る、

そんなパフォーマーになりたい・・・そう思うのね。じゃくじらは?・・・まっ目指す立ち位置さえ決まれば、やる事は自ずと決まって来るし、人と違って当然。俺がくじらに教えられるのは、俺がどんな姿勢で取り組んでいるか?・・・ただそれだけ。

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