katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

金魚の壁画

2023-03-19 08:01:52 | モザイク作家

今日は朝からお教室があったんだけど、体調不良って事でキャンセルになったんで、金魚の壁画って事になるんだけれど、昨日久し振りに向き合ったんだけれど、中々説明無しだと判りづらいと思うんで、軽い説明を入れると、例えば建築としてのモザイクとなると、先日のモンステラの玄関を例に

すると、50cmの大きさにモンステラを描くって事になると、スペースが大きく無い事から、出来るだけ大きく描こうとするのね。何故ならまず踏む前提として考えると、いつものような1cmタイルを数ミリに切って・・・ってスタイルでは無く、なるべく滑らないような・・・とか、ツルツルより、

ザラザラかな・・・とか、絵の前に安全面を考えたりもするのね。これが壁なら、そんな事を考えなくても良いんだけどね。そうなると、タイルの厚みも変わって来るから、当然切る事に限界もあったりするのね。1cmと同じ細さや細かさは難しくなるし、剥がれるなんて事も考えたりもする。

何しろ踏むんだからね。だからこそ、スペースいっぱいを使う事で、なるべく一番細いパーツや細かいパーツになると思われる部分が、無理せずに切れる大きさになるような絵を・・・となるから、モンステラの場合は、縁取り部分で考えるのね。そうして描いた絵は、もう後は切るだけになる。

ただモンステラを大きくしたって事は、バックが少なくなったって事になるのね。バックが少ないって事は、バックを考える事が少なくなった事を意味するのね。ほら考える事が少ない・・・つまりモンステラの下絵が終わった時点で、ほぼ終了になる。これが良くある建築のパターンなのね。

所がこの金魚の壁画の場合、まず壁画な事で、さっきも言ったように、壁は細かく出来る事。踏まない事を考えると、いつものモザイクと何ら変わらなくなるのね。そこへ持って来て、畳1枚分の大きさよりも大きいスペース・・・更にそこに金魚1匹描いたらどうなる?って事になると、流石にそうは

ならないから、あれこれって事になると、金魚の壁画と言いつつ、バックの方が多くなるでしょ?つまりバックが多くなる、多くなると、そこをどうする?って考える事が多くなる。しかも1cmタイルもありきで・・・この考えるって時間が果てしなくなるのね。こうした事がやる前から判っていても、

受ける時に、厳しいと判っていても、じゃ辞めるって選択があるか?となると、数少ないチャンスって思ったり、外の壁画だよな・・・と思うと、人に触れる機会って思ったりすると、無理しても行かないとならなくなる訳で・・・。所が、そんな時間を費やせば当然経費もかさむし、予算なんか

とっくにオーバーもする。そうなれば生活を脅かす事になる・・・これが貧乏の仕組みなのね。では何故それなら、金額に合う事にしないか?って事になると、そもそも金額に合うように・・・なんて考えていたら、そもそも出来るものでは無いから、世の中には無かったりするのね。

つまりまず見せる側に立たないと・・・所が、俺に頼むような人は、変わったものが好きな人だと思うのね。そんな人にドットのモザイクなんて通用すると思う?まず無理だし、もっと言えば、ネットで作品を見て注文してくれたりしているから、過去の実績を踏まえてだよね?

じゃその過去の作品は?って言ったら・・・羽を抜いて作ってるに決まってるのね・・・だって羽は抜かないでしょ?普通は。それが普通。でも変わってるって何?鳥が飛べなくなってどうすんの?そしたら、可愛いって言うならペンギンになりゃ良いし、バタバタ飛ばなくても、ハシビロコウなら、

じっとしていても生きられる。何しろ変わった・・・って言うのは、音読み訓読みって言うのなら、変(へん)だったりする。つまり普通じゃ無いって言うのは、変わっているとか、変とかになる。一般的では無いのだから。でもモザイクって一般的?って言うと、日本なら公共事業的な話で、海外

なら、教会とか、遺跡、勿論ありとあらゆる所にあるから、ピンからキリまである。こんな場合、日本の普通と海外の普通、大きく変わるよね?では海外で、教会を普通って言うか?って事にすると、じゃ住宅の床に教会のようにして・・・ってあるかな?見なくてもあるはずは無いのね。

だってそんな所に何処でもあったら、教会なんて普通じゃん。つまり大きさだけじゃ無くて、凄いって言うのは質も凄いのね。こんな事が普通な考え方だとしたら、日本は?となると、公共事業や学校なんかで見かけるのはドットアートだったりする。つまり切らないで並べたものなのね。

これを凄いって言うか?って事になると、大きいから凄くは見えるが、海外の人からすれば、何て事の無いものだったりする。ただのモザイク。俺はそんな普通の為にタイル屋を辞めたんじゃ無いのね。誰も出来ない凄い事がしたいのね。何でも。だから、見た事の無い事ってだけじゃ無くて、凄い

ものにしないとならないのね。しかも凄いに欠かせない大きさって言うのも、普通では無い以上、畳1枚位で、世界のモザイクと比較して互角以上に見せたいのだから、そんな事を考えたら、やって当たり前なんだけれど、そんな事をし続けたら餓死が待っている事になる。

こんな折り合いってどう付ける?・・・だから考える・・・どの位までなら死なないで済むか?どの位やれば、世界の目の肥えた人達に、凄いって言われるモザイクに見える?・・・これに尽きる。そんな中、お教室があったはずなのに、無くなったのだから、折角無くなったんだから・・・と、前向き

に考えると、何かわざわざ出来る時間って考えたりして・・・玉石で四つ葉を切ったりしたんだけど・・・きっと違うんだろうな。だから張らずに置いただけ・・・悩んでいても始まらないから、やっては見たものの、違っていたんだろうな。ただそれならそれで、使い道はあるんだろうけど。

そんなこんな中、さくらがやって来て・・・お教室じゃ無いから、画像は無いのね。まぁしかし悩んだり、考えたりする事が試行錯誤って言うんだけどね・・・そんな事も無く簡単なはずは無いのね・・・人とは違うって、個性だ、オリジナルだって、これが自分と向き合うって初歩の初歩。

じゃ無いと、見られて簡単に真似されちゃうでしょ・・・本当に凄いのは、アメリカの目の肥えたファンに、見かける事の無い二刀流なんて、しかもただ出来たじゃ無くて、凄い結果・・・これこそ唯一無二ってなもんになる訳で。俺もそうなりたいってだけ。たわけもんでしょ?60にもなろうと、

してんのに・・・ただね、なれないって一度も思った事は無いんだけどね・・・。

 

 


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