今日は午後からキウイとくじらの相席教室。そうね、前回も相席だったんだけど、くじらが俳句の人って事で、分野は違えど創作の人。そうなると、いつもならそうなのかな?と半信半疑になるような話も、くじらが共感したりすると、やっぱりそうなんだ・・・って納得しやすくなる。
逆にモザイクの話になると、当然上手いキウイが相槌を打つと、くじらがやっぱりそうなんだ・・・的に、3人って複数人の相席って言うのは、バランスが良かったりするのね。それが二人は生徒で、女性とくくると、俺だけ男・・・
そうなると、共感出来ない話になる訳で・・・こう言うのが実は大事な事で、一見モザイクにそんな雑談何の役にも立たない・・・って思われがちなんだけれど、実はこう言う話が個々の個性的な考え方の趣味趣向の話なのね。
つまりオリジナル制作には絶対欠かせない部分なのね。何故それが好きなのか?何故そこから受け入れられないのか?って微妙な感覚は、ザックリは流せない部分になる。例えば料理にこだわる人との話だとして、昆布買って来て・・
って頼まれた時、何でも良いなら、料理には左程こだわりが無いんだな・・・って感じに思えないかな?服部先生は生徒さんに昆布なら何でも良いよ・・・って言うかな?それがテレビから今夜の夕飯を作るお母さんに、何処の昆布で、
とは言わない感じがするのね。これを人は見掛けで判断と言うのなら、平野レミ先生なら、無きゃあれでもこれでも良いわよ・・・そんなとここだわらなくて・・・みたいに言ってくれそうな・・・。
同じ先生でもニュアンスが違うかも知れないし、思っている通りかも知れないし、意外と逆だったりして・・・こう言うちょっとした違いを気にするような場合、こんなたわいもない話にこだわれるのなら、本気な作品作りなら
絶対にこだわりが強くなるだろう・・・って事なら、口紅の赤なんてザックリな表現じゃ無くて、どんな赤を思い浮かべてる?って、すり寄せないと、食い違いが起こって来るのね。大体なんて言い方はしないと思うのね。
そんなこだわりは余りない・・・って言う人もいるが、五感って部分で、創作として自分がモザイクのような美って事をしようとすると、視覚って部分にこだわりを持つって事になり、料理なら味覚って部分にこだわる事になる。
その時にモザイクだから、視覚に敏感に・・・となった時に、敏感さみたいな表現に該当する事が判りやすいのは、目に見える事なのね。例えば無風なら真っすぐに逆らわない葉っぱや花ってものが、風が吹けば倒れる。
つまり風の強さで倒れ方は変わるし、その向きで倒れる方向まで判る。これが目に見える事なのね。しかし、これがまるで何々のような風・・・みたいな比喩となると、目に見えない例えな感じになる。
例えばギターの音色で、泣きのギターみたいな表現があったりする。悲しいとか切ない音色なんだろうね。それを全く考えなければ、一音一音、楽譜通りであれば、楽譜上は合っているだけなら誰が弾いても一緒。
個性とかオリジナル的な表現は、そう言う目に見えない、説明いらずで感じ取る事の出来るような繊細さの事だと思うのね。例えば以前も触れた事がある例で言うのなら、寅さんのテーマソングの渥美清さんの歌う、男はつらいよを聴いた時、どんな感じに聞こえるか?
そしてそれをカバーした玉置浩二さんを比較すると、いかに違う歌に聞こえるか?事で比較すると、本家の渥美さんは、のどかな感じで、ダメな兄貴が頑張っている・・・程度の駄目さ加減が出ているのね。
所が玉置さんが歌うと、ダメさが半端無いのね。もはや刑務所に入る悪さをやってしまったように聞こえるのね。一体何をしでかしたんだ・・・多分、妹は破談になるな・・・もう幸せなんか訪れない・・・そんな歌なのね。
同じ歌でも全く違うものなのね。ただ歌うだけなら、俺でも歌える。しかし聞く人にとんな風に届くか?となると、ただ楽譜通りに歌うだけでは、上手いね・・・位の評価が精いっぱいだと思うのね。
こんな話を前提にくじらの俳句に話を変えると、俳句はたった17文字。そこに季語なんてルールを入れたりすると、後何文字残ってんだよ・・・って事になる。それを情景描写として説明なんかしようとすれば、全く字が足りない・・・。
そもそもが今、1887文字…17文字ではとても説明出来ない。つまり知らないながら、きっと俳句は説明では無いと思うのね。しかも、書いた側がいくら上手くても、読み取る側がそれ相応のルールや、文字の持つ意味を知らないと、
何が何だか判らない事だらけになる。そもそも読めない字ばかりだったりするのね。例えば単純に一音符に一文字なら、咲いた、咲いた、チューリップの花が・・・となると、幼児でもどんな歌か判る。万人に伝わる。
難しい単語も出て来ないしね。しかし、お洒落じゃ無いし、カッコ良くも無いから、大人になって歌わないし、もしカラオケで歌ったら、ドン引きになるでしょ?つまり伝わっただけになる。
それをそのルールを壊した感じが、吉田拓郎さんみたいに、もはや早口言葉的に、字数の多さで逆も真なりって具合に相反するやり口で、伝えようとする・・・しかし当然子供は切り捨てる事になるのだけれどね。
表現は難しいし、情景描写が子供では理解出来ない。だって浴衣の君を酔って抱けない・・・なんて、大人にならなきゃ判るはずも無く・・・人間なんてららららららララ・・・って言われても・・・。
同じように、オフコースの言葉にできない・・・なんてのも一緒で、サビがラララだからね。でも、言葉で感動する・・・なんて文字よりも、涙が止まらない・・・って言う言い方もあるし、涙が・・・と最後まで言わないって、
表現もあるし、演技なら後ろを向くなんてのも、涙を見せない・・・みたいな事にも思えるし、上を向いて歩こう的なら、涙がこぼれないように・・・って表現になるし、伝え方は色々あったりする。
これを昔の人は恋文のやり取りを、判らぬようにやり取りしたのだから、送る方は工夫をして、読み取る側も想像して・・・ただそれを17文字なのだから、ある意味モザイクに通ずるものがある。
簡単な話、絵の方が似るし、判りやすい。しかしそれを四角いタイルを切って、ぷきっちょな絵にしかならない事で、いかに繊細に出来るか?みたいに不自由の中で伝えようとするって行為は、どMな感じなのね。
ただその不自由がもし伝わるのなら、どんな名画でも外には出せないし、環境を整えないと生きられない。つまりカトレアみたいな感じなのね。でもタンポポはあまざらしだろうが平気。モザイクも踏まれても平気。
ある意味、不自由を楽しむものなのかもね・・・。そう見れば、キウイの作品もそんな感じ。
こだわるって言うのは、上手い人がやるとこうなるし、体験の初めての人でも、きっとこうしたかったんだろうな・・・と腕は未熟であっても、何かしら伝わったりするものだったりするのね。
くじらとの話のやり取りは、感じ取る・・・って練習には持って来いな感じはするし、俺も勉強になるのね。例えば17文字の少なさの妙技と言うのなら、パーツを少なくしたモザイクで、どう伝えられるか?みたいな話。
もう必要最低限に削り落とすとか、大事なものを豪華一点主義となるのか?表現しかたについて・・・だったりして、異種格闘技的な話になるのね。しかも性別も違うし・・・。近頃のくじらの、俳句の打ち込み方みたいなものが、
そうさせているのかも知れないが・・・いずれにせよ、後は見た人の感想なんで、各々色々あると思うのね。むしろ何も感じない・・・って言う事は無いと思うが、最終的には大体好みかどうか?なんて事も多々あるのね。
後は何と無く良いか?悪いか?とかね。それがその分野をやればやるほど、技術なんて事が判って来ると、凄いとか上手いとか純粋に見られるようになるもので・・・。感じ取るって側も経験値だったりするのね。
自分もそうだけれど、一方的に習う側だった頃と、人に教える側になった時、人に教える、伝える、そんなきっかけになるような・・・って行為を経験すると、教わる時に物凄い̟プラスになったりするのね。
今のくじらにはそんな匂いがするのね。恐らく俳句側に充実している事があるのかな。そんな感じがしたのね。