それぞれの地域には、それぞれの歴史があり、形となっているものがあります。
先日、耶馬溪文化協会の委員会、耶馬溪歴史の総会がありました。
しかし、今、水害や過疎化が進んでいる中で、貴重な文化財が存在しているのか、確認をする必要があります。
「〇〇家にある宝塔」などという市の文化財があります。
そこが、空き家になっていたりすることもあります。
今年度は、調査をする計画案が提示されました。
歴史に詳しい先輩方が高齢になったり、亡くなったりしていく中で、資料づくりは貴重なものとなります。
来月から少しずつ、現地調査が休みの日に行われていきます。
耶馬溪の人類の歴史は、これからとなります。
『縄文時代の耶馬溪の遺跡
耶馬渓町内の中で、人類の生活あとを明確につかめるのは、縄文時代からです。
縄文時代より前の旧石器・先土器時代の遺跡、遺物は現在のところ確認されていません。
縄文時代の遺跡の一つは、山国川の最上流、深耶馬溪字ザットクの地にあります。
山国川の1支流につくる深い浸食谷がL字状に屈曲する地点で、河流に沿って形成された小さな沖積地に存在します。
昭和45年~46年にブルドーザーによる整地が行われた際に、多数の縄文土器と石で作られた矢じりの石鏃(せきぞく)が出土されています。
現在もなお浸食谷の裾部から渓流沿岸にかけて包含層が残っています。
土器片の包含を見つけることができます。
土層は表土の下に黒褐色土層と褐色土層が続き、この2つの層に遺物が入っています。
地形上、土砂の流動や、遺物の上流からの流下が考えられますが、現地は一応正常な包含層と確認できる状況です。
遺物の均一性と量から考えても、上流から流されてきたと考える必要はないと思われます
遺物は、主に縄文時代の後期(約3500年~3000年前)の土器片と打製石鏃です。
土器は磨消(すりけし)縄文の技法を使い、整形には貝殻条痕を残すもので、東九州、瀬戸内海の縄文後期の土器に共通する特徴を持ちます。
近辺では、宇佐市大字立石の立石貝塚や、中津市植野貝塚の時期とほぼ同じです。
形式上の特徴にもこれらとの強い共通性が見られます。
昭和50年段階で、石鏃は、公民館に保管されているもの11個のうち、姫島産の黒曜石を利用したもの7例、産地不明の黒曜石2例、チャート製の石鏃1例があります。
別府大学の調査で、この遺跡の下層には、押型文土器(縄文早期)の包含層があるとのことです。
今後の調査を期待しています。
耶馬溪町史ができた当時には、石斧など遺物は、個人の所有になっていることが記されています。
その後、中津市との合併で遺物が移動したり、所有者が亡くなったりしている中で、遺物がどこに保管されているのか、確認する必要があります。
耶馬溪の歴史を知る中で貴重な財産です。
【耶馬溪町史より】』