川本ちょっとメモ

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「愛国心」を論ずる前に戦争責任の所在の検証・公表を求める(元兵士)

2006-05-23 10:54:39 | Weblog


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2006年5月23日朝日新聞(大阪)投稿欄「声」から、そのまま転記しました。

■投稿者:無職 西 節也 (奈良県河合町 86歳)

陸軍の兵士だった。ニューギニアでマラリアにかかり、昭和19年(*1944年)1月、フィリピンへ。軍の病院で療養後、復帰して第8師団の大隊に配属された。

マニラ攻防戦で米軍の猛攻に旧式装備の我々の部隊は対抗できず、昭和20年(*1945年)5月以降、次第にマニラ東部山岳地帯に逃れた。食糧の補給はなく、兵は栄養失調とマラリアで相次いで倒れた。

部隊の退路には遺体が散乱して死臭を放ち、生き地獄の様相を呈して凄惨を極めた。敗走中、私は米軍の自動小銃で右腕に貫通銃創を受けた。幸い助かったが多くの戦友を失った。

「聖戦」の美名で軍は若者を侵略戦に投入した。太平洋戦争で軍人の戦死者は230万人といわれる。

私が派遣されたニューギニアやフィリピン・ルソン島では、実感としてそのうち餓死者は8割を超える。

米英の実力を侮り、大軍を前線に派遣しては見捨て、飢餓で自滅させた東条以下軍首脳の無能極まる作戦の結果だ。

苦闘を強いられた我々はもちろん、今も遺骨が放置されている多くの戦没者やご遺族の憤懣を思う。

「愛国心」を論ずる前に、この戦争責任の所在をうやむやにせず正しく検証し、公表して欲しい。






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