<関連記事クリック>
2006/09/01
戦争責任を問われなかった昭和天皇、財界人、言論人、教育者、官僚
2006/08/30
東京裁判――日本軍の毒ガス使用も、人体実験も、人肉食も不問
2013/08/13
母から聞いた1945年の空襲体験と食料事情と敗戦の日の気持ち
2006年5月23日朝日新聞(大阪)投稿欄「声」から、そのまま転記しました。
■投稿者:無職 西 節也 (奈良県河合町 86歳)
陸軍の兵士だった。ニューギニアでマラリアにかかり、昭和19年(*1944年)1月、フィリピンへ。軍の病院で療養後、復帰して第8師団の大隊に配属された。
マニラ攻防戦で米軍の猛攻に旧式装備の我々の部隊は対抗できず、昭和20年(*1945年)5月以降、次第にマニラ東部山岳地帯に逃れた。食糧の補給はなく、兵は栄養失調とマラリアで相次いで倒れた。
部隊の退路には遺体が散乱して死臭を放ち、生き地獄の様相を呈して凄惨を極めた。敗走中、私は米軍の自動小銃で右腕に貫通銃創を受けた。幸い助かったが多くの戦友を失った。
「聖戦」の美名で軍は若者を侵略戦に投入した。太平洋戦争で軍人の戦死者は230万人といわれる。
私が派遣されたニューギニアやフィリピン・ルソン島では、実感としてそのうち餓死者は8割を超える。
米英の実力を侮り、大軍を前線に派遣しては見捨て、飢餓で自滅させた東条以下軍首脳の無能極まる作戦の結果だ。
苦闘を強いられた我々はもちろん、今も遺骨が放置されている多くの戦没者やご遺族の憤懣を思う。
「愛国心」を論ずる前に、この戦争責任の所在をうやむやにせず正しく検証し、公表して欲しい。