おかあちゃん、チイが亡くなったよ。土曜日の朝9時40分ごろ、亡くなったよ。
8時30分ごろ、上の子が家を出るときは、首をわずかに持ち上げて応えていたそうだ。9時30分ごろに、家内がストローで水を何滴か飲ませた。9時40分ごろ、息をしていないことに家内が気づいた。
ちょうど二十年生きたよ。上の子が五つのとき、おかあちゃんが真っ白の子猫3匹を拾って帰ってきた。2匹はまもなくもらわれていき、残ったのがチーだ。
それはエルが亡くなって、そんなに月日が経っていないころやった。おかあちゃん、埋葬した残りのエルの遺骨を死ぬまで持っていたね。
ヨークシャーテリヤのエルは十数年生きて、奈良の地の新しい家で亡くなった。おかあちゃんといっしょに、京都から移り住んできた。老衰だった。
エルが死んで「もうペットは飼わない」と、ぼくはおかあちゃんにきつく当たったね。家内がペットとの同居が不潔だと、きらっていたからだ。
おかあちゃんは、若いときからずっと犬ばかり飼ってきた。でも糖尿で体力が落ちたのか、エルのあとに犬を飼うのはあきらめていたね。猫なら、犬にくらべると手間がかからない。
おかあちゃんは白猫を自分の部屋の外の縁台で飼いはじめた。「絶対に家の中には入れないから」。おかあちゃんにきつく言ったね。
その外猫チイが、3カ月か4カ月のうちに、家の表の道路で車にはねられた。動物病院にかけこんで、右後脚を付け根から切り落とした。
三本足になった。誰がいうでもなく、動物病院から帰ってそのまま、内猫チイになった。家内も同意だった。
おかあちゃんは、子ども時代に暖かい家庭に恵まれなかったね。ぼくをお腹に宿してから、2回も大空襲に出会った。広島全滅の翌日8月7日に広島に行って、負傷者や死者だけの街を歩いたんやね。それに加えて、ぼくが幼いころに離婚した。
そんなだから、孫といっしょに暮らす平和な家庭生活はなによりの幸せやったでしょ。おかあちゃんの生涯で最も幸せな時期やったとぼくは思う。
だけど、姑一人の立場は、ぼくら四人家族から微妙に外れてもいる。生まれてから一度も飼ったことのない猫を、犬好きのおかあちゃんがかわいがっていたのは、そういう寂しさがあったからやね。
おかあちゃんが亡くなっあと、ぼくら家族は「遺猫チイはいつまで元気やねん」とからかっていた。おかあちゃんが生きているときは、おかあちゃんの部屋がチイのすみかやったね。夜はいつもおかあちゃんのふとんの中やった。ただし、それは真冬だけ。
おかあちゃんが亡くなってからは、玄関のドアの内側、踏み込みの土間にダンボールの箱を置いた。箱の中にざぶとんを敷いた。家の入口にいるものだから、家族4人ともチイとべったりの生活になった。家内も子どもも、チイをよくかわいがってくれた。
チイは必ず砂箱でトイレをしてきた。失敗はなかった。おかあちゃんが死んでから、砂箱の外ですることが多くなった。愛情不足があったかもしれないが、老化が主因だと思う。
毎日毎日、家内は玄関の拭き掃除をしたり、洗い流したりで大変やった。そんな日々のうちに、二人の子も家内もチイをかわいがった。
おかあちゃん、おかあちゃんが生きているとき、チイはおかあちゃんの子やった。おかあちゃんが居んようになってから、チイは家の子になったよ。
……しかし、いよいよチイも衰えてきた。ほとんど寝そべったままで一日過ごすようになった。痩せが目立ってきた。
ぼくがチイの写真を撮ったのは10月12日やった。天候が良かったから、チイを裏庭に出してやった。日差しが強い日やったから、家内と話して傘をかけてやった。チイは幸せそうだった。
最後の1週間ほどは、二人の子も家内も、とにかくよく世話をし、よくかわいがった。チイは穏やかにしていたが、ほとんど食べなくなった。16日は水も飲めなくなった。
17日朝、チイが息を引き取ったとわかってすぐ、ダンボールの中をきれいにして敷物を入れ替えて、チイを寝かせつけた。娘は出かけていなかった。
息子が裏庭の野草を摘んだ。白い花と赤紫の花とねこじゃらしを摘んで、小さな花束を作ってチイに添えてやった。息子のやさしい仕草にぼくは少し驚いた。
仏壇の前にチイを置いて、家族3人で枕経をあげた。最期の日々、チイは眠ってばかりいた。おかあちゃん、チイは平穏な寝顔やったよ。
娘の帰宅を待って家族そろって、午後一番で火葬場にチイを連れていった。係員が一人、人間の葬儀と同じ白手袋のいでたちで、ていねいにチイの遺体を受け入れてくれた。ちょうど火葬場にいる間だけ、さっと通り雨が降った。おかあちゃん、チイは大切に送ったよ。安心してよ。