川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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わたしたちは戦争加害者の子孫である――日中韓平和のために

2014-12-28 15:01:13 | Weblog



日本は軍事力によって朝鮮を占領支配、大日本帝国領にして植民地統治をしていました。他国の領土を軍事力をもって自国領土にする行為は「侵略」です。侵略したことは歴史的事実であって、わたしたち日本人は1945年(昭和20年)敗戦以後に生まれた日本人であっても、先人たちの過ちはくり返さないと韓国の人たちに謝って当然でしょう。

1931年(昭和6年)、日本軍は満州(現在の中国東北部)を占領し、その後満州国が建国されました。満州国は大日本帝国の植民地国家でした。1937年(昭和12年)、日中戦争が始まりました。これは1945年(昭和20年)の日本敗戦までつづきました。

中国との戦争は、終始、中国領土内で行われました。これは侵略戦争そのものであり、中国側から見れば「抗日戦争」です。中国領土内で中国人と戦争をするのですから、中国兵だけでなく、100万単位の一般中国人も死にました。死んだというより、殺されたという表現が正しい。砲撃や空爆で死んだ人々は日本兵が銃撃したわけではないので、日本側から見れば殺したという感覚がないかもしれません。しかし、日本軍の攻撃で死んだのですから、中国側から見れば「殺された」ということになります。

日本だって、沖縄壊滅、東京大空襲、広島原爆、長崎原爆と、この四つの死傷者だけでも膨大な数に上るのですから、中国全国の戦場で百万単位の人が死んだというのは納得できる数字です。

 中国を侵略したことは歴史的事実であって、1945年(昭和20年)敗戦以後に生まれた日本人であっても、わたしたちが先人たちの過ちをくり返さないと中国の人たちに謝って当然でしょう。中国全土で戦争をして多くの中国人を殺したことにまちがいないのですから。

韓国については慰安婦問題で、有ったとか無かったとかで韓国を責めている人たちがいます。しかし、韓国を軍事力で征服支配したことは歴史的事実です。敗戦日本の米軍上陸につれて、多くの若い日本女性が米軍兵士のお伴をしたということや日本政府がそれを準備・黙認したことから、わたしたちは韓国人慰安婦の存在を類推することができます。行政当局や軍当局が直接手を下していないとしても、当局が、慰安施設経営や慰安婦募集をした民間業者を使って統制していたのは事実です。軍につきまとう世界共通の問題だといって居直る論者もいますが、それで免罪されることではありません。

南京大虐殺については死者数の多い少ないで中国を責めている人たちがいます。私は、中国人の首をぶらさげて自慢げな日本軍人の報道写真を本で見たことがあります。軍刀を下げていたので、将校だったのかもしれません。中国領土内で戦争をしているのだから、兵装をしていなければ兵士と民間人の区別はつきません。中国民間人で殺された人の数は膨大であったに違いありません。大都市・南京の争奪戦と占領掃討戦などで殺された民間人が3万人であったか、10万人であったか、20万人であったか、その数の多寡によって侵略日本軍の罪が許されるものではないでしょう。

 わたしたちは日常生活の経験で、なにかのことでひどい目にあったことはしつこく覚えているものです。楽しかったこともそうなのですが、被害経験も忘れようとしてもなかなかできません。しかし、こちらにとって忘れたくても忘れられないあいつ、当の加害者は、そんなできごとをすぐに忘れてしまいます。

韓国も中国もいつまでイヤガラセをするのか、と非難がましく言う日本人がいます。それは、罪を犯した加害者が、罪を問う被害者を叱りつけている居直りの構図だと言えるでしょう。

私の育ての父は中国(北支)で従軍していました。学生出身の速成将校で、凄絶な戦闘は経験していないようでした。育ての父から3つの話を聞いてはっきり記憶しています。

一つ目の話は、万里の長城(どのような場所かは聞いていません)で撃たれて落下した。夜になって日中両軍の戦場掃除が始まって、負傷した父を味方が回収してくれた。どういう事情なのかはわかりませんが、父は「将校だから助かった、兵隊だったら放っておかれたと思う」と私に話しました。

二つ目の話は、あるとき中国人(人と言ったのか兵と言ったのか忘れました)の捕虜が一人、父の小隊に預けられた。その捕虜が父の弟にそっくりでした。捕虜は銃剣刺突の練習台で殺されるのはわかっている。それで父は捕虜を逃した、と話してくれました。どのように逃がしたのかは聞いていません。

三つ目の話は、陸士出の隊長につかまったらみんな死んでしまう。連中はとにかく「突撃っ、突撃っ」だからたまらんよ。ぼくは部下に、「無理するなよ、無理するなよ」だったから弱い隊長だった。――そう話した父は小隊長でしたから、上官の中隊長や大隊長に士官学校出がいたのでしょう。でも、そんな隊長の下では兵士の死傷者が増えたことでしょうが、それ以上に中国人の死傷者は多かったことと思います。中国戦線で日本はそんなに負けていなかった、という話も聞いていますので。

わたしたちは韓国に対しても中国に対しても、すなおに過去日本の罪を認めて、「再びそのようなことはしません」と表明し誓うことは戦争加害者の子孫であるわたしたちの務めであると思います。

 川本追記2019.8.29.
日本は1941年12月にアメリカと戦争を始めると同時に、東南アジア(現在11カ国)や西南太平洋の領域で大戦争をやりました。日本兵の敗残記録をいくつか読んで、この惨状は地獄の相であると思いました。それと同時に同じ領域で暮らしている人たちも、日本人が持ちこんだ戦争のおかげで、ひどい目にあったに違いないと想像しておりました。

 『シンガポール華僑粛清――日本軍はシンガポールで何をしたのか』(林 博史 著、高文研 2007.6.25. 第1刷、全262ページ)は始めから終わりまで事実ばかり詰めこんで、事実の紹介に徹しています。巻末参考文献一覧に、①未公刊資料:シンガポール1件、イギリス2件、日本4件、②日本語文献79件、③英語文献36件、④中国語文献12件を記載して信頼に足るものです。

この本を元にして、下のブログ記事を構成しました。日本人による戦争のおかげでひどい目にあったのは、中国大陸や朝鮮半島だけではないことがよくわかります。

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