初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

静岡県庁にどうして行こうか?

2020年05月13日 17時46分06秒 | Weblog


浜松市の県庁所在地の静岡市には

親戚の戸谷(とだに) の叔母さんが

住んでおられました…

… … …

戸谷の叔母さんのご主人は我が親父の

上の兄貴の養子先でした。

我が親父の兄弟は大勢なので

その中の1人が他家へ養子に出されたのでした

… … …

親父の兄弟には成功者が多くて、この戸谷の兄貴は

銀行の頭取でした。

満州の私の親父に会いに来た人で

そして、肺炎で亡くなりました。

… … …

後年、親父はあの時、ペニシリン(抗生物質) が

あれば、兄貴は助かっていただろうに…と

嘆いていたことがありました。

… … …

静岡に住んでおられた戸谷の叔母さんは

その未亡人です。

その叔母さんを頼って、私の編入する

学校のことで相談に行くことになりました。

しかし。私の母親はこの叔母さんが

苦手なのでした。

… … …

添付写真は最近の静岡です





静岡県庁の教育課で聞いてください

2020年05月12日 20時25分04秒 | Weblog


私は小学校(国民学校) の6年生の夏に日本は

敗戦を迎えました。新京春光国民学校

(しゅんこう)は残ったのですが

肝心の先生方がどうされたのか1人残らず

消えてしまいました。

… … …

私たち、小学生は授業も受けられず

宙ぶらりんの状態のまま、年月だけが

いたずらに過ぎていきました。

… … …

やがて、中学校、1年生の年頃になって

元中学校の先生方がボランティアで

ガリ版プリントを配って、授業のようなものが

始まりましたが、ボランティアですから

公式の学校活動ではありません。

… … …

結局、私は年齢的に中学1年生でありながら

公式の中学生ではありません。

私たち家族が浜松に落ち着いてから

母親は市役所に、私の学校のことで

相談に行きました。

… … …

浜松市役所の答は、ここではどうもできません

静岡県庁の教育課で相談してください…でした。





私の学校のブランクをどうするか?

2020年05月11日 21時26分13秒 | Weblog


満州新京から長い道程と時間を

かけて、はるばる日本の浜松へ

引き揚げてきました…

私たち家族は誰も病気にならないで

無事、帰国できました…

私たちが満州で乗車した貨物列車が

途中、奉天(ほうてん=現・瀋陽) で

朝鮮半島を通って帰るかまた、真っ直ぐ

進んで葫蘆島(ころとう)から船で帰ると

大人達が議論していました。結局私たちは

葫蘆島経由、信濃丸で帰国したのです。

… … …

後でわかったことですが、朝鮮半島経由で

引き揚げた連中は、悲惨な目に遭ったと

噂で聞きました…。

… … …

私たち家族は、親父の故郷、浜松で

久しぶりに、落ち着いた生活が始まりました。

そして、小学校(国民学校) 六年生の夏に、敗戦で

学校は無くなり、先生方の消息もわからなくなって

私の勉強は、六年生の夏で中断してしまいました。

そして次の中学校も敗戦でありません…

小学校六年生の夏から中学一年生?の夏までの

ブランクをどうするか、ということになりました。


2400円のバラックで生活が始まる

2020年05月08日 21時56分38秒 | Weblog


私たち5人家族は、

2400円のバラックで

生活が始まりました

バラックの規模は六畳間と

四畳半に、くみ取り式のトイレに

台所で、台所はガス、水道は

ありましたが…

風呂はありません。

風呂は町の銭湯へ通うことになります。

… … …

住み始めたバラック住宅が凄まじいものでした。

六畳と四畳半の居間がすごいのです

畳が無いのです。板の間に藁ムシロを

敷き詰めています…

… … …

引き揚げ者家族の私たちが

住み始めたバラック住宅だけが

凄まじいのではありません。

戦災で焼け野原になった

浜松市のあちこちに

建ち始めたバラック住宅が

全部そうだったのでした。






バラック復興住宅 2400円

2020年05月06日 22時27分34秒 | Weblog


私の親父の兄貴は

浜松市内で歯科医院をやっていました。

その兄貴が戦時中、浜松市の

田舎へ疎開していました。

… … …

そして敗戦を迎えて

戦災で焼け野原になってしまった

浜松市内の医院の跡地に

復興住宅が建ちました。

… … …

市内のその住所は

元魚町(もとうおちょう)です。

その焼け野原の跡地に

2400円というバラックの平屋が

建っていました。

その2400円というのが

何を意味するのか私には

判りませんでした

… … …

満州新京から、引き揚げてきた

私たち5人家族は、浜松で

新しい住まいが見つかって

戦後の日本でやっと、

住み始めることになりました。





親父の故郷、浜松へ

2020年05月03日 20時44分40秒 | Weblog


目まぐるしく景色が変化する日本の列車に

乗って、親父の故郷、静岡県浜松市へ

向かいました…

… … …

夜の広島駅を通過して列車は進みます

浜松に着くのは翌朝になるのでしょう。

引き揚げの臨時列車に乗って

浜松に着くまでの何回かの食事はどうして

いたのでしょう?…私はさっぱり覚えていません。

当時は、自由に米のご飯が手に入らなかったはずです。

… … …

やがて、浜松駅に列車は到着しました

私が幼稚園児のころ、訪れたことがありましたが。

その浜松駅を出て最初に目に飛び込んできた

景色を見てショックを受けてしまいましたる

… … …

見渡す限り、焼け野原で、所々にバラックの民家が

並んでいて、焼け残った松菱(まつびし)百貨店のまわりに

テント掛けの店がならんでいました。

… … …

後でわかったのですが、浜松に軍需工場が

あって、浜松の沖合からアメリカ海軍の

艦砲射撃で、攻撃されたのでした。