愛野町議会議員として招待される行事としては最後になる、愛野小学校の運動会に出席させていただいた。
10月10日(愛野町議会議員としての最後の日)にも、もう一つ招待されているが、その方はずっと前から決まっていた個人的な用事が優先するので、参加する事は出来ない。
だから、今日の小学校の運動会が、実質的には愛野町議会議員としての最後の参加行事となった。
愛野小学校の生徒数は、最近少しずつ増えているそうだ。
愛野町は、地理的な立地条件から、周辺地域に対するベッドタウンとしての要件を満たしているので、人口が微増している。
若い人達が愛野町に居住するようになると、その子どもたちは愛野小学校に入学する。
愛野町の人口の5人に1人は、年齢が65歳以上の人だそうだが、子どもの数が増えつつあるという事は、愛野町地域にとっては喜ばしい事だ。
自分が愛野小学校に通っていた頃の運動会を思い出した。
私は運動会が嫌いだった。
走るのがとにかく遅かった。
位置について、ヨーイ、ドンのピストルの音を聞いた時には、他の人達は既に2m先を走っていた。
スタートラインに着く前から、心臓の鼓動はドキドキドキドキと速くなり、自分たちが走る順番が来る頃には、頭の中がぼーっとなって緊張の極限状態に達する。
その様な状況下でピストルの音を聞くものだから、走り出した頃には、他の人達はずっと先の方で走っていた。
さらに走る事自体が遅いものだから、他の人達との差はどんどんと広がり、先頭の人がゴールする頃に、やっと半分ぐらいの距離の所を走っているような状態だった。
1人で、ぽつんと離れて走らなければならない時の恥ずかしさは、子ども心には非常に大きな負担であり、とても長い時間の様に感じていた。
その様な思いをする、徒競走の時だけは、運動会が大嫌いだった。
その他の、障害物競走やフォークダンスなどの時には楽しく過せた。
小学校の2年生の時の運動会だったと思うが、障害物競走で3着になって、賞品の鉛筆を1本もらった事がある。
小学校の6年間で、運動会で3着以内に入って賞品をもらったのは、その時が唯一だった。
見学に来ていた父親に、その3着賞品の1本の鉛筆を誇らしげに渡した事を覚えている。
フォークダンスの時には、これも別の意味でドキドキしていた。
好意を持っている女の子と手をつなげる順番が、少しずつ近づいて来る時の嬉しい緊張感だ。
よく神様が、それぞれの人生は、プラスマイナスゼロになるように、いろんなことを設定されているというような事を聞くが、その事は案外当っているのかなとも思う。
子どもの頃には、人前に出る事に対して、極度に緊張していたが、今では人前に出て話す事は平気になっている。
子どもの頃に、たくさんの緊張する場面を与えられた代わりに、大人になってからは大勢の人の前でも緊張する事が殆んど無くなったようだ。
きっと、神様という存在が有るとすれば、私の人生の中の緊張症を、プラスマイナスゼロになるような匙加減をしてくれているのでは無いのかとも思う。
そのおかげで、町会議員の職務が務まっている。
小学生が運動会の入場行進をしている姿を見て、この中にも私の小学生の時と同じような思いをしている子どもがいるのかも知れないなと思ってしまった。
しかし、各学年の徒競走を見ていると、私の子ども時代の様に、極端に引き離されるような子どもはいなかった。
みんな一生懸命に走っていた。
一つだけ気になったのは、私たちが子どもだった頃よりも、肥満ぎみの子どもの数が多くなっているように思えた事だ。
飽食の時代の結果ではあろうが、それらの子どもたちの寿命は、現在の高齢者の方々のそれと比べてどうなるのだろうかなと思った。
その前に、自分の肥満気味の体と寿命のことを心配せよと言われそうだが。
今日、入場行進をしていた小学校の1年生が、私の年齢の51歳になる頃には、自分はあちらの世界の住人になっているのだろうなと思うような年齢になってしまった。
これからの夢に満ちた、無限の可能性を秘めた子どもたちの姿が羨ましくもあった。
豊田かずき
10月10日(愛野町議会議員としての最後の日)にも、もう一つ招待されているが、その方はずっと前から決まっていた個人的な用事が優先するので、参加する事は出来ない。
だから、今日の小学校の運動会が、実質的には愛野町議会議員としての最後の参加行事となった。
愛野小学校の生徒数は、最近少しずつ増えているそうだ。
愛野町は、地理的な立地条件から、周辺地域に対するベッドタウンとしての要件を満たしているので、人口が微増している。
若い人達が愛野町に居住するようになると、その子どもたちは愛野小学校に入学する。
愛野町の人口の5人に1人は、年齢が65歳以上の人だそうだが、子どもの数が増えつつあるという事は、愛野町地域にとっては喜ばしい事だ。
自分が愛野小学校に通っていた頃の運動会を思い出した。
私は運動会が嫌いだった。
走るのがとにかく遅かった。
位置について、ヨーイ、ドンのピストルの音を聞いた時には、他の人達は既に2m先を走っていた。
スタートラインに着く前から、心臓の鼓動はドキドキドキドキと速くなり、自分たちが走る順番が来る頃には、頭の中がぼーっとなって緊張の極限状態に達する。
その様な状況下でピストルの音を聞くものだから、走り出した頃には、他の人達はずっと先の方で走っていた。
さらに走る事自体が遅いものだから、他の人達との差はどんどんと広がり、先頭の人がゴールする頃に、やっと半分ぐらいの距離の所を走っているような状態だった。
1人で、ぽつんと離れて走らなければならない時の恥ずかしさは、子ども心には非常に大きな負担であり、とても長い時間の様に感じていた。
その様な思いをする、徒競走の時だけは、運動会が大嫌いだった。
その他の、障害物競走やフォークダンスなどの時には楽しく過せた。
小学校の2年生の時の運動会だったと思うが、障害物競走で3着になって、賞品の鉛筆を1本もらった事がある。
小学校の6年間で、運動会で3着以内に入って賞品をもらったのは、その時が唯一だった。
見学に来ていた父親に、その3着賞品の1本の鉛筆を誇らしげに渡した事を覚えている。
フォークダンスの時には、これも別の意味でドキドキしていた。
好意を持っている女の子と手をつなげる順番が、少しずつ近づいて来る時の嬉しい緊張感だ。
よく神様が、それぞれの人生は、プラスマイナスゼロになるように、いろんなことを設定されているというような事を聞くが、その事は案外当っているのかなとも思う。
子どもの頃には、人前に出る事に対して、極度に緊張していたが、今では人前に出て話す事は平気になっている。
子どもの頃に、たくさんの緊張する場面を与えられた代わりに、大人になってからは大勢の人の前でも緊張する事が殆んど無くなったようだ。
きっと、神様という存在が有るとすれば、私の人生の中の緊張症を、プラスマイナスゼロになるような匙加減をしてくれているのでは無いのかとも思う。
そのおかげで、町会議員の職務が務まっている。
小学生が運動会の入場行進をしている姿を見て、この中にも私の小学生の時と同じような思いをしている子どもがいるのかも知れないなと思ってしまった。
しかし、各学年の徒競走を見ていると、私の子ども時代の様に、極端に引き離されるような子どもはいなかった。
みんな一生懸命に走っていた。
一つだけ気になったのは、私たちが子どもだった頃よりも、肥満ぎみの子どもの数が多くなっているように思えた事だ。
飽食の時代の結果ではあろうが、それらの子どもたちの寿命は、現在の高齢者の方々のそれと比べてどうなるのだろうかなと思った。
その前に、自分の肥満気味の体と寿命のことを心配せよと言われそうだが。
今日、入場行進をしていた小学校の1年生が、私の年齢の51歳になる頃には、自分はあちらの世界の住人になっているのだろうなと思うような年齢になってしまった。
これからの夢に満ちた、無限の可能性を秘めた子どもたちの姿が羨ましくもあった。
豊田かずき