昨日招待された小学校の運動会の開会式で、気になった事がある。
国旗と国歌の扱いについてだ。
開会式の途中で、国旗並びに校旗掲揚があった。
「君が代」のメロディーにのって、国旗並びに校旗を掲揚していたが、国歌である「君が代」の斉唱はなかった。
国旗を掲揚するのであるから、国旗については教育上認めている事になる。
それでは、国歌の「君が代」に対する扱いは、公立の学校教育の現場ではどうなっているのだろうか。
私は、国旗と国歌は一体性を持っているものであるという認識をしている。
国家の象徴的な印である国旗を認めて、教育上教えて行く事は当然の事であるが、同時に国歌としての「君が代」も、教育上きちんと教えていくべきであるというのが私の考え方だ。
「君が代」の中の歌詞の「君が代」という部分が、天皇陛下が治める世の中という解釈になるから、そのような意味合いの教育を子どもたちにする事はおかしい事なのだと主張する人達がいるが、私は、それは間違った考え方だと思う。
憲法で、天皇陛下は国家の象徴であると明記してあるのであるから、仮に「君が代」という歌詞の意味がそうであったとしても、筋は通っていると思う。
「日の丸」や「君が代」が、戦争の象徴的なものだったという論法で、それは認めるべきではないという主張をされる「教育者の先生方」もおられるようだが、私はその様な考え方は短絡的過ぎると思っている。
決して「日の丸」や「君が代」が戦争を引き起こしたのではないという正しい認識を持つべきであると思う。
それらを象徴的に使い、国民の意識を洗脳して行く様な教育を行ってきたのであろうという事は認める事は出来るが、だからこそ、そのような事でも洗脳されないような考え方を持てるような人間になれるように指導していく事こそが、本来の教育が果たすべき本質的な役割であるという考え方を持っている。
先般行われた、愛野町閉町記念式典においては、当然の事ながら、国歌「君が代」の斉唱は行われた。
その歌詞を口ずさむ時に、私は心が鎮まる。
だからといって、私は右傾化した考え方の持ち主ではないという事をことわって置く。
外国の人が、合法的に我が国に居住する事は、当然の事ながら認めてよい事ではある。
ただし、ここは私たちの祖先が築き上げてきた、私たちの国家「日本国」なのだ。
国策として、洗脳的な教育を受け、強制的に戦争に駆り出されて犠牲になった人々や、靖国神社に祀られているような人達も、全てを含めて私たちの祖先であり、そのような人達が礎となって現在の「日本国」が形成されてきたのだという事実を変えることは出来ない。
国旗や国歌をきちんと認識できない国民がいる事自体、国家としておかしいと思うし、なさけない事だ。
子どもたちの自主性に任せて、見ていてなさけないような、テレビの流行のフレーズを応援合戦に取り入れるような教育をする事よりも、国民の1人としての自覚を持たせるような確固たる教育をしていく事の方が重要であると思う。
国旗や国歌が、軍国主義化や戦争賛美につながるというような短絡的な考え方を、公教育の場に持ち込むこと自体が間違っている。
公教育の現場では、国歌「君が代」は斉唱させるべきであると考えている。
豊田かずき
国旗と国歌の扱いについてだ。
開会式の途中で、国旗並びに校旗掲揚があった。
「君が代」のメロディーにのって、国旗並びに校旗を掲揚していたが、国歌である「君が代」の斉唱はなかった。
国旗を掲揚するのであるから、国旗については教育上認めている事になる。
それでは、国歌の「君が代」に対する扱いは、公立の学校教育の現場ではどうなっているのだろうか。
私は、国旗と国歌は一体性を持っているものであるという認識をしている。
国家の象徴的な印である国旗を認めて、教育上教えて行く事は当然の事であるが、同時に国歌としての「君が代」も、教育上きちんと教えていくべきであるというのが私の考え方だ。
「君が代」の中の歌詞の「君が代」という部分が、天皇陛下が治める世の中という解釈になるから、そのような意味合いの教育を子どもたちにする事はおかしい事なのだと主張する人達がいるが、私は、それは間違った考え方だと思う。
憲法で、天皇陛下は国家の象徴であると明記してあるのであるから、仮に「君が代」という歌詞の意味がそうであったとしても、筋は通っていると思う。
「日の丸」や「君が代」が、戦争の象徴的なものだったという論法で、それは認めるべきではないという主張をされる「教育者の先生方」もおられるようだが、私はその様な考え方は短絡的過ぎると思っている。
決して「日の丸」や「君が代」が戦争を引き起こしたのではないという正しい認識を持つべきであると思う。
それらを象徴的に使い、国民の意識を洗脳して行く様な教育を行ってきたのであろうという事は認める事は出来るが、だからこそ、そのような事でも洗脳されないような考え方を持てるような人間になれるように指導していく事こそが、本来の教育が果たすべき本質的な役割であるという考え方を持っている。
先般行われた、愛野町閉町記念式典においては、当然の事ながら、国歌「君が代」の斉唱は行われた。
その歌詞を口ずさむ時に、私は心が鎮まる。
だからといって、私は右傾化した考え方の持ち主ではないという事をことわって置く。
外国の人が、合法的に我が国に居住する事は、当然の事ながら認めてよい事ではある。
ただし、ここは私たちの祖先が築き上げてきた、私たちの国家「日本国」なのだ。
国策として、洗脳的な教育を受け、強制的に戦争に駆り出されて犠牲になった人々や、靖国神社に祀られているような人達も、全てを含めて私たちの祖先であり、そのような人達が礎となって現在の「日本国」が形成されてきたのだという事実を変えることは出来ない。
国旗や国歌をきちんと認識できない国民がいる事自体、国家としておかしいと思うし、なさけない事だ。
子どもたちの自主性に任せて、見ていてなさけないような、テレビの流行のフレーズを応援合戦に取り入れるような教育をする事よりも、国民の1人としての自覚を持たせるような確固たる教育をしていく事の方が重要であると思う。
国旗や国歌が、軍国主義化や戦争賛美につながるというような短絡的な考え方を、公教育の場に持ち込むこと自体が間違っている。
公教育の現場では、国歌「君が代」は斉唱させるべきであると考えている。
豊田かずき