先日、旦那さんが入ってる本田健のオンラインサロンから、コロナ禍に何かできる事という事で、ランダムにプレゼントが送られて来た。
旦那さんに届いたのは、『「自分を幸せにする」教育とは?」』という講演会のCD。
以前、オンラインサロンの中で、本田健はこれからの時代、どういう教育をすればいいかという質問に、「それは、『自由人の教育』をするのか、『不自由人の教育』をするのかで、教える事が違う」と答えていた。つまり、「足し算や引き算ができなくても、0からクリエイトする事にフォーカスするのか、言われた枠の中で生きるのか」で違って来ると言うのだ。時間がないので、それ以上掘り下げて説明はしていなかったけど、本田健の1人娘は、サドベリースクールに行っていたと言っていたので、興味を持っていた。それに関するCDだった。
さあやが生活団に行っていて、生活団に入る時に調べて知ったのは、生活団はオルタナティブスクールという分野に入るという事。自分で選択して行く学校(この場合は幼児教育だが)という事だ。それと似た感じのもので、サドベリースクールというのも出て来ていた。子ども達が、自分達の学校の事は自分達で民主的に決めるというもの。
私は、さあやに生活団という選択肢を選んだ事で、自分自身がかなりの影響を受け、教育によっては子どもは変な偏見を持つ事もあれば、良い習慣を身に着ける事もあると知って、教育というものに興味を持った。
子育てというのは、ある意味、自分の生き直しだと思う。
本田健のCD1枚目を聞いた。
子どもがやりたい事だけをやらせる学校。
子どもが興味を持たなければ、子どもが自分の名前も書けないままかもしれない。それでも、子どもを信頼するというのがサドベリースクールの方針。そうして、興味を持ったら、それまでの義務教育の過程を一気に勉強してしまう子もいる。自分が興味を持ってするから、勉強が楽しいらしい。
そして、サドベリースクールの事を改めて調べ始めた。
良いもののように言っているけど、どんなものにでもデメリットはあるもので、「サドベリースクール 批判」という言葉も出て来た。
自分がやりたい事だけをするというので、成り立つのだろうか?
そんな時、子どもが最近見ているハイジで、ハイジを育てる事になったおんじの教育の方針が出て来るところがあり、興味を持った。
録画していたので、書き起こした。
「アルプスの少女ハイジ」の第17話 「二人のお客さま」
8歳になったハイジは冬の間、村の学校に通わなければならなかったのですが、なぜかおじいさんはハイジを学校に行かせようとはしませんでした。
そこで、村から牧師さんが来て、おんじにハイジを来年は学校にやるように説得しに来た。
おんじ:わしはあの子を学校へはやらん考えです。
牧師:おっ。(口をあんぐり開ける。)
では、あの子に一体何をさせようというのですか。
おんじ:何もさせはしません。
あの子はヤギや鳥と一緒に大きくなり、伸びていくのです。
そういうものを相手にしていれば幸せだし、ヤギや鳥からは悪い事は何も教わりません。
牧師:だが、あの子はヤギでもないし、鳥でもない。人間の子です。そういう仲間からは悪い事は教わらないにしても、教わる事は何もない。あの子はこれから勉強して色々覚えなくてはいけないし、無駄に時を過ごしてはならんのです。
お隣さん、お前さんはこの夏中にこの事をよぉく考えて、決めて下さい。
それをあまり時が遅れないうちに言いたくて、わしはやって来たのです。あの子が何も教わらないで過ごす冬は、これが最後ですぞ。今度の冬には学校に通わなくてはなりません。それも毎日です。
おんじ:お断りします。
牧師:(ハンカチを出して、汗を拭く。)
いやぁ、お前さんはそんなに訳の分からない事を言って、強情を張りなさい。それなら、その頑固をやめてもらうために、こちらにも法がないとお思いなさるか。お前さんは広い世の中を歩いて、色々見もし、覚えもしなさった。もう少し話の分かる人だと思っておりましたよ、お隣さん。
おんじ:そうでございましたか。
この次の冬に凍えるような寒い朝に、まだ手足のか細い女の子を嵐や雪の中をくぐって山を下らせる。そして2時間も歩かせる。そんな事ができますか。それからまた夕方には、わしらだって息も詰まりそうなくらいに雪が荒れ、風が吠えている中を登って来させる。わしがそんな事をすると、牧師さんは本当にお考えでございますか。
そういう時に、あの子はどうすればよろしいのかな。無理をして病気にでもかかれとおっしゃるのですか。誰でも来るがよろしい。そして取りたければ、あの子を取って行くがよろしい。わしはあの子を連れて、どこの裁判所にでも出かけます。
そして、誰がわしの手からあの子を取り上げるのか、その顔を見てやりましょう。
牧師:それはおっしゃる通りです、お隣さん。あの子をここから学校へやる事はできますまい。だが、お見受けしたところ、お前さんはあの子を大層かわいがっておられるらしい。それなら、あの子のためにもな、お前さんはずーっと前からそうしていなすっては良かったんだが、またデルフリ村へ下っておいでなされ。そうして、他の人達と一緒にお暮らしなされ。この山の頂上にただ1人で生きて、神を恨み、人を憎む、これは一体何という生活ですか。お前さんに万一の事があった時、誰が世話をしますか。お前さんが冬中この小屋に閉じ籠って、別に凍えもせず、またあの華奢な女の子もそれに耐えて、何とも不思議な事です。
ハイジ、外の野山でヨーゼフ(犬)と駆け回ってる。
おんじ:あの子は身の内は暖かいし、掛け布団もいいのがある。それは、牧師さんに申し上げておきます。それからわしは、木の生えている所は知っているし、天気が良ければそれを切りに行く事も心得ております。わしの薪小屋を覗いてみて下さい。何でも置いてあります。この家では冬中火が絶える事はありません。
牧師さんは落ちぶれたとご覧になるかもしれないが、わしはそう思ってはおらん。下の村の連中はわしを軽蔑しておるし、わしは奴らを軽蔑しておる。お互いに離れて暮らしているので、それで両方とも、まあ無事です。
牧師:いやいや、そんな事はない。あの下の村の人達はお前さんを軽蔑すると言っても、そりゃそれほど大した事じゃない。わしの言う事を信用なさい、お隣さん。そして、来てみなさい。人々がお前さんを見る目はまるで違って来るし、お前さんも必ずもっと楽な気持ちになれる。お隣さん、わしはあてにしていますよ。次の冬にはまたわしらの所へ来て下さるでしょうな。そうすれば、我々はまた昔ながらの仲の良い隣人です。あの子を無理にお前さんから引き離す事になっては、このわしもつらい。さあ、約束して下さい。お前さんが山を降りて、神様とも人とも仲直りをして、我々と一緒に暮らすと言って下さい。
(右手を出す。)
おんじ:(手を握り返す。)
牧師さんのご親切は分かります。だが、しろと申される事はわしはしません。間違いなく申し上げる。わしはハイジを学校へはやりません。そして、山も降りません。
牧師:何もかもやむを得ん。
握手をはずして、牧師が家を出て、外に出る。
ハイジが駆け寄る。
ハイジ:もうお話済んだ?
牧師:うん。ハイジ、おじいさんと2人きりで暮らしてて寂しくないかね。
牧師:うん。ハイジ、おじいさんと2人きりで暮らしてて寂しくないかね。
ハイジ:ううん。ちっとも!
お話って何だったの?
牧師:おじいさんにお聞き。じゃあ、また会おうな。
牧師:おじいさんにお聞き。じゃあ、また会おうな。
ハイジ:うん。
さよーならー。
言わば、おんじの生き方・ハイジの教育方針も、サドベリースクールに似たものがある。ただし、これは子どもでなく、おんじが決めてるのだけど。
でも、それを言えば、義務教育や(この当時のスイスは義務教育があったのか分からないけど)学校だって、子どもが決めたのでなく、大人が、国が決めた事に従ってるだけなんだけど。
でも、この後、ハイジの母方の叔母さんのデーテが来て、ハイジをドイツのフランクフルトに連れて行く事になり、その後ハイジは山へ帰りたいと鬱っぽくなる。
それを考えると、ハイジがアルムの山に来たのは、たまたまだったのだけど、それがすごくハイジに合ってたんだろうな。そして、おんじはハイジはこの生活が合ってると分かっての、この教育方針なんだろうなと思う。
それで言うと、この前にやってたアニメ「赤毛のアン」では、元々酪農の手伝いをしてくれる男の子を探してたけど、手違いで来た女の子を養女にする訳だけど、その女の子は勉強が好きだから、結局大学にまで出す事になる。
要は、大人がその子に何が合っているかを見極める事なのかな。
どんな教育がいいのかは答えが出ないのだけど、学校に行く、皆と同じ事をする、だけが正解&答えじゃないというのが頭にあるだけでも見えるものは広がるんじゃないかな。