今日から修士一年後期に担当する演習が始まった。この演習はもともと近現代文学のスペシャリストである同僚が担当してきたが、すでにこのブログでも言及した理由でその同僚が今年度から四年間不在なので、その間私が代役を務める。これも頼まれたからそうするのであって、買ってでたわけではない。
引き受ける条件として、広い意味での評論文・批評文・エッセイを扱ってもいいことにしてもらった。とはいえ、講読テキストを選定するにあたって、最初はいわゆる文芸批評というジャンルから選ぼうとした。そう限定しても興味深いテキストには事欠かない。が、結局やめた。
というのは、後期は学部でも新規担当科目が二つもあり、正直なところ、準備にあまり時間をかけたくないからである。すでにこちらが慣れ親しんでいるテキストにしたい。三木清の『人生論ノート』にした主な理由はそこにある。
が、もちろん学生たちにそうは言えない。で、初回の今日、テキスト選定の理由として、フランスの文学研究では、モンテーニュやパスカルも研究対象になるのだから、日本の文学についても同じ理屈を当てはめて『人生論ノート』にしたのであると、さも熟慮の末の選択であるかのようにもっともらしく説明した(ユルシテオクレ)。
そして、その選定理由を補強するために、三木清の生涯と思想について一時間半ほど「熱を込めて」語った(これはホントです)。『パスカルにおける人間の研究』(1926年)が当時のパスカル研究において先端的な研究であったことを特に強調した。この点については、昨年3月のストラスブールでのシンポジウムで発表した際に作り込んだスライドがあり、それを流用した(これもホントです)。
どうやら熱は伝わったようで、学生たちの三木への関心に火を付けることに成功したという手応えを得た。
次回からは、ただテキストを訳すのではなく、翻訳作業を通じて、三木のテキストと対話しながら、それぞれのエッセイのテーマ(同書の二十三篇のエッセイから「幸福について」「懐疑について」「習慣について」「孤独について」「希望について」「旅について」の六篇を選んだ)について、モンテーニュ、デカルト、パスカル、マルブランシュ、スピノザ、ライプニッツ、メーヌ・ド・ビラン、ラヴェッソン、ベルクソン、アランなどもときに参照しながら、学生たちと議論するつもりである。
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