内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(6)後世に託された無尽蔵の遺産

2024-10-24 23:59:59 | 哲学

 メーヌ・ド・ビランは1824年7月20日午後4時に逝去した。その前夜9時頃にビランは遺書を口述筆記させている。それ以前にも何通か書いた遺書があったが、それらを破棄し、本状が自分の最後の意思であることが遺書の最後に明記されている。この最後の遺書が以前に書かれた遺書とどこがどのように異なっているのかはわからない。
 この最後の遺書の口述には4人の証人が立会い、口述された遺言は、公証人によって字句通り書き留められ、口述後公証人によって読み上げられ、ビランによって承認されたことを4人の証人が確認するという手続きを経た法的に有効な遺書である(Maine de Biran, Œuvres, tome XIII-3, Correspondance philosophique 1805-1824, Vrin, 1996, p. 892-894)。
 遺書の前文には、身体的には病気であるが、その精神は健全であり、判断・記憶・悟性も確かであることが公証人および証人たちとの会話によって確かめられたと記されている。
 遺書本体には、順に、妻に遺す不動産と動産、二人の娘に移譲される動産、家政婦へ支給される生涯年金の年額、召使いへの一時謝礼金額とビラン没後の給金の保証等についての簡潔な記述が続いているが、家政婦スゼット・デムランへの遺言が妻への遺言より若干長く、二人の娘へのそれより倍近く長いことが目を引く。
 ビランは、自分の没後もスゼットが家に残り、妻と子どもたちに仕え続けることを望んでいる。妻と子どもたちがスゼットを大切にすることは、彼女が自分に尽してくれた間ずっと変わらなかった熱意と献身からして当然のことだと確信している。
このような遺書を死の前日に口述できたことは、先日19日の記事で引用した医師の以下の所見が必ずしも外からの上辺だけの観察に尽きるものではないことの一つの証左にはなるかと思う。

M. Maine de Biran conservait d’ailleurs toute la sérénité & tout l’usage, toute la force de son esprit. On aurait dit que son âme se rendait de jour en jour plus indépendante d’une organisation que l’on voyait s’affaiblir, se détruire, sans pouvoir opposer aucun obstacle à cette destruction qui fut consommée le 20 juillet 1824, sans effort, sans agonie, je dirai presque avec les apparences & le bienfait d’une mort subite.

メーヌ・ド・ビラン氏は、しかも精神のまったき平静さ、その十全なる運用、そのすべての力を保持していた。 彼の魂は、弱体化し自壊していくのが目に見える組織から日を追って独立していくかのようであったが、この自壊に対していかなる障壁も設けることはできず、1824年7月20日にその肉体の自壊は完遂された。しかし、そこには、強いてする努力も末期の苦しみもなく、いわば、ほとんど突然訪れた死の様相と恩恵を伴っていた。

 最後の日記以後の約2ヶ月間の哲学者の沈黙は、その間の内面世界の「気象」を永遠に封印してしまった。しかし、内面世界のコロンブスたらんとしたビランは、その日記と諸著作とによって、いまだに発見されることを待っている無限の内面世界を無尽蔵の遺産として私たちに託してくれたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(5)絶望のうちにあって待ち望む

2024-10-23 13:44:32 | 哲学

 ビラン最後の日記の最終二段落を読む。

 Mens sana in corpore sano. La réunion des deux bien nécessaire pour que l’homme soit entier, mais comment l’est-elle ? On peut avoir un corps frêle avec une âme forte et une âme forte et une âme lâche et faible avec un corps bien constitué ; c’est là ce qu’on voit, mais ce qu’on ne voit pas, ce sont les rapports secrets et intimes qui unissent et intimes qui unissent une certaine partie de l’organisation avec l’âme sentante et pensante. Il y a certainement telles parties organiques qui sont pour ainsi dire en liaison, en contact intime avec l’âme ; suivant qu’elles sont disposées bien ou mal, l’âme s’affecte tristement, se sent faible ou forte, se représente clairement ou voit tout dans les nuages et le trouble etc…
 Je ne crois pas qu’indépendamment de telles dispositions (non pas du corps entier, mais de cette partie organique et indéterminée dont nous parlons) l’âme pût être forte par elle-même ; j’ai le sentiment intime de cette dépendance misérable ; il faut une influence surnaturelle pour qu’il en soit autrement.

 「健全な身体に健全な精神が宿らんことを」。人がひとつの全体として完全であるためには、この二つの組み合わせがまさに必要である。 私たちは、強い魂を持ちながら弱い肉体を持つことがあるし、よく構成された肉体を持ちながら弱くだらしがない魂を持つこともある。それは私たちが目にすることだが、私たちに見えていないのは、身体組織のある部分と「感じ」・「考える」魂とを一体化させる秘めやかで親密な関係である。いわば、魂とつながり、親密に接触している何らかの有機的な部分が確かに存在する。それらがうまく配置されているかいないかによって、魂は悲しみに暮れたり、弱さを感じたり、強さを感じたり、自分自身を明瞭に表現したり、あるいはまた、すべてを雲間や混乱の中に見たりする……。
 私は、このような気質(身体全体ではなく、今話題にしているこの有機的で不確定な部分)とは無関係に、魂がそれ自体で強くなれるとは思わない。私はこの惨めな依存をこの身に感じている。それとは別の仕方で在るためには、超自然的な影響力が必要だ。

 肉体と魂との秘めやかで親密だが安定的ではない関係に長年振り回されつつ、その日々の揺れ動きをそのもっとも「身近」にあって注意深く内察し丹念に記録し続けた稀有な日記が最後に至り着いたのは、肉体への惨めな依存とは違った仕方で生きることを魂に可能にしてくれる超自然的な影響力を、つまり神の恩寵を、絶望のうちにあって待ち望むことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(4)ぼろぼろになった肉体に対する最後の抵抗としての日記

2024-10-22 14:10:47 | 哲学

 今日と明日の二回でメーヌ・ド・ビラン最後の日記全文を読み終える。

 On ne peut savoir d’avance à quel degré de nullité morale et de dégoût de soi-même la maladie peut nous réduire. J’en suis la preuve vivante.
 L’homme hait son existence lorsque tous les instants sont des souffrances et que l’espoir de changer d’état est détruit : c’est en ce cas l’âme qui est dégoûtée de son corps qui ne la sert plus, importunée et fatiguée par cette machine délabrée qui l’occupe malgré elle, en ne lui envoyant plus que des impressions pénibles, tristes, décourageantes, qu’elle ne sent plus la force de changer ni de distraire. Comment se fait-il que l’âme tombe dans cet abattement, cette misère par certaines modifications organiques dont il lui est impossible de se dégager par sa force propre, tandis que dans d’autres altérations de la machine, l’âme se sent entière et capable de faire taire le corps ? Celui qui pourrait assigner les conditions de ces états connaîtrait à fonds la nature humaine.

 病気が私たちをどの程度の道徳的無価値と自己嫌悪に陥らせうるのか、あらかじめ知ることはできない。私がその生きた証拠である。
 すべての瞬間が苦しみであり、自分の状態を変える希望が破壊されたとき、「人間」は自分の存在を憎む。この場合、魂は、もはや自分の役には立たない肉体に嫌気がさし、自分の願いとは裏腹に自分を占領し、苦痛と悲しみと落胆に満ちた印象しか送ってこないこの老朽化した機械に悩まされ、疲れ果て、もはやそれを変えることも気をそらすこともできないと感じる。魂が、自らの力ではそこから解放されることが不可能なある種の器質的変化によって、このような落胆や不幸に陥る一方で、この機械の他の変化においては、魂は完全で肉体を黙らせることができると感じるとは、いったいどうしてそんなことがありうるのだろうか。このような諸状態の条件を見極めることができる人がいるなら、その人は人間の本質を知り尽くしているだろう。

 魂がそこから解放されることが古代ギリシアから願われてきた牢獄としての肉体は、一度病気になれば、どこまで人間を道徳的に苦しめ自己嫌悪をいだかせるかわからない。病気は、場合によっては、それが肉体にもたらす苦しみからの解放を願うエネルギーさえ奪ってしまうところまで深刻化する。
 しかし、ビランは、そのようにぼろぼろになってしまった自分の肉体に対して、日記を記し続けることそのことによって最後の抵抗を試みているかのようだ。
 ビランは、日記において自らを証人として召喚し、肉体がどこまで魂を支配しうるのかを包み隠さず証言させた最初の哲学者であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(3)「私を苦しめているのは私の精神の弱さである」

2024-10-21 23:59:59 | 哲学

 ビランの最後の日記の続きを読もう。

 Le stoïcien est seul ou avec sa conscience de force propre qui le trompe ; le chrétien ne marche qu’en présence de Dieu et avec Dieu par le médiateur qu’il a pris pour guide et compagnon de sa vie présente et future.
 C’est l’infirmité de mon esprit qui m’afflige plus encore que l’infirmité de ma chair à qui la première se lie. Je ne sais plus que devenir. Si l’état maladif du corps avait pour effet d’ouvrir les yeux de l’esprit et de changer le cœur, il serait heureux de souffrir, mais je cours encore après la vanité bien plus qu’après la vérité ; je cherche le monde pour ranimer un reste de vie physique languissante, quoiqu’il me dégoûte et que je ne sois plus dupe d’aucune de ses illusions.

 上の段落だけを読むかぎり、ストア派の生き方と敬虔なるキリスト教徒の正統的な生き方とが比較され、前者が後者の立場から批判されているだけだが、次の段落では、ビラン自身は、神を必要としながら神とともに歩むことができず、導き手であり伴侶である仲介者イエス・キリストによって神とともにあることができない自分の苦しみを吐露している。
 私を苦しめているのは私の精神の弱さなのであり、それが結びついている肉の弱さ以上に私を苦しめる。私はもはや何になるべきなかわからない。肉体の病的な状態に、精神の目を開き、心を変える効果があるのなら、苦しむことは幸せなことであろう。ところが、私はいまだに真理を追い求めるよりも、虚栄を追い求めて走っている。私は、衰弱した身体的生命の残りに生気を取り戻させようと世俗世界を追い求める。たとえそれが私をうんざりさせ、もはやその幻想に騙されなくなっているとしても。
 虚栄 vanité と真理 vérité とがイタリックで強調され、韻を踏んでいるのが痛々しい。世俗世界は幻想に満ちていると身に沁みてわかっていながらそこから身を引き離せないとの嘆きは、死に至るまで下院議員であり、死の2週間前に下院議長に体調不良ゆえに議員としての職務を果たせないことを詫びる誠実な手紙を送っているビランだけになおのこと痛切に響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(2)「孤身にして跌倒る者は憐なるかな」

2024-10-20 13:49:48 | 哲学

 昨日引用した5月17日の日記の冒頭の段落に続く短い二段落を引用する。

 Il faut toujours être deux et l’on peut dire de l’homme, même individuel, vae solo ; si l’homme est entraîné par des affections déréglées qui l’absorbent, il ne juge ni les objets, ni lui-même ; qui s’y abandonne, il est malheureux et dégradé, vae solo !
 Si l’homme, même le plus fort de raison, de sagesse humaine, ne se sent pas soutenu par une force, une raison plus haute que lui, il est malheureux, et quoiqu’il en impose au dehors, il ne s’en impose pas à lui-même. La sagesse, la vraie force consiste à marcher en présence de Dieu, à se sentir soutenu par lui, autrement vae solo !

 ルフランのように3度繰り返される « vae solo » という句は旧約聖書伝道之書第4章第10節の「孤身にして跌倒る者は憐なるかな」(岩波文庫『文語訳 旧約聖書 III』)から取られている。ビランの viscéral な魂の叫びを聴く思いがする。
 この句が出てくる前後も含めて、第7節から第12節まで引用する。

我また身を転らし日の下に空なる事のあるを見たり 茲に人あり只独にして伴侶もなく子もなく兄弟もなし然るにその労苦は都て窮なく其目は富に飽ことなし彼また言はず嗚呼我は誰がために労するや何とて我は心を楽しませざるやと是もまた空にして労力の苦しき者なり 二人は一人に愈る其はその労苦の為に善報を得ればなり 即ちその跌倒る時には一箇の人その伴侶を扶けおこすべし然れど孤身にして跌倒る者は憐なるかな之を扶け起す者なきなり 又二人ともに寝れば温煖なり一人ならば争で温煖ならんや 人もし其一人を攻め撃たば二人して之に当るべし三根の縄は容易く断れざるなり

 グイエが脚注で引用しているのは、17 世紀後半に成就したフランス語訳聖書の至宝である  Louis-Issac Lemaître de Sacy 訳である。それも引いておく。

En considérant toutes choses, j’ai trouvé encore une autre vanité sous le soleil. Tel est seul et n’a personne avec lui, ni enfant, ni frère, qui néanmoins travaille sans cesse ; ses yeux sont insatiables de richesses, et il ne lui vient point dans l’esprit de se dire à lui-même : Pour qui est-ce que je travaille, et pourquoi me priver moi-même de l’usage de mes biens ? C’est là encore une vanité et une affliction bien malheureuse. Il vaut donc mieux être deux ensemble que d’être seul ; car ils tirent de l’avantage de leur société. Si l’un tombe, l’autre le soutient. Malheur à l’homme seul ; car lorsqu’il sera tombé, il n’aura personne pour le relever. Si deux dorment ensemble, ils s’échauffent l’un l’autre ; mais comment un seul s’échauffera-t-il ? Si quelqu’un a de l’avantage sur l’un des deux, tous deux lui résistent : un triple cordons se rompt difficilement.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(1)

2024-10-19 18:49:43 | 哲学

 昨日の記事で紹介したジャン・スタロバンスキーの Le corps et ses raisons には « Silence du malade, discours du médecin » と題された8頁の短い論文が収められている。巻末の初出情報によると、初出時のタイトルは « Moreau de la Sarthe et Laennec au chevet de Maine de Biran »、 Nature, histoire, société. Essais en hommage à Jacques Roger(éd. par Claude Blanckaert, Jean-Louis Fischer et Roselyne Rey, Paris, Klincksieck, 1995)という記念論文集に収録されている。
 この記事のテーマは、メーヌ・ド・ビランが日記に最後に書き残した記事の内容とその後死に至るまでの約2ヶ月間の病状を詳細に綴った医師が見た「メーヌ・ド・ビラン氏」との本質的な乖離である。身体の衰弱に抗う力を失った魂の絶望的な苦悩を書き綴った「主観的な」最後の内省後の哲学者の「沈黙」は、当時の医学的所見および処方として妥当とみなしうる「客観的な」記録によってはまったく測深不可能である。例外的に詳細な所見はそのことを明瞭に示している。その最後の段落を引用しよう(スタロバンスキーは当時の綴りのままで引用しているが、現代表記に改めた)。

M. Maine de Biran conservait d’ailleurs toute la sérénité & tout l’usage, toute la force de son esprit. On aurait dit que son âme se rendait de jour en jour plus indépendante d’une organisation que l’on voyait s’affaiblir, se détruire, sans pouvoir opposer aucun obstacle à cette destruction qui fut consommée le 20 juillet 1824, sans effort, sans agonie, je dirai presque avec les apparences & le bienfait d’une mort subite.

 死の約2ヶ月間前、5月17日にビランはその苦悩を日記に綿々と綴っている(Maine de Biran, Journal, édition intégrale publiée par Henri Gouhier, Neuchâtel, La Baconnière, 3 vol., 1954-1957, vol. 2, p. 425-426)。スタロバンスキーが « pathétiques » と形容するその文章の全文(スタロバンスキーは上掲論文のなかでそのごく一部しか引用していない)を、今日から何回かに分けて読んでみよう。

Dans le pauvre état de santé, de faiblesse, de trouble physique et moral où je suis, je m’écrie sur ma croix : Miserere mei, domine, quoniuam infirmus sum. Lumbi mei repleti sunt illusionibus et non est sanitas in carne mea. Certainement la source de tant d’illusions malheureuses que ma raison ne peut vaincre est dans ces organes intérieurs (lumbi) qui s’affectent et se montent par des causes quelconques indépendantes de ma volonté, et leur produits spontanés ou les images qui prennent là leur source sont plus fortes que la raison même qui les reconnaît, les juge sans pouvoir les dissiper ; c’est dans de tels états qu’on sent le besoin d’une grâce supérieure. 

 イタリックの二つの文はラテン語訳旧約聖書詩篇からの引用である。前者が第6篇第2節「(エホバよ)われを憐れみたまへ、われ萎みおとろふるなり」、後者が第38篇第7節「わが腰はことごとく焼くるがごとく肉にまったきところなければなり」(岩波文庫『文語訳 旧約聖書 III』、2015年)。前者は4月25日の日記にも引用されている。
 私の意志とはまったく独立な諸原因によって引き起こされる内臓諸器官の不調に対して理性は為すすべがない。理性はそれらを認識することはできても、消散させることはできない。こんな状態にあって人は上からの恩寵の必要を感じる。
 これはビランの心底からの叫びであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自己感は身体の「全体感」という原初的な次元に基礎づけられている

2024-10-13 17:52:33 | 哲学

 生理学および心理の分野で「体感:快感,不快感を基本とする,漠然とした全身の感覚」を指す術語としてのフランス語 cénesthésie は十九世紀前半に登場する。しかし、それ以前にメーヌ・ド・ビランが cœnesthèse という語を用いて、快苦を感じる原初的な身体の全体感覚を主題化している。
 ビランはこの概念の着想をドイツの生理学者・解剖学者・精神科医のヨハン・クリスチャン・ライル(1759‐1813)が提案した coenaesthesis という学術ラテン語から得ている(Nouvelles considérations sur les rapports du physique et du moral de l’homme, manuscrit 1812, édité par Bernard Baertchi, in François Azouvi, Maine de Biran, Œuvres, tome IV, p. 125)。
 ビランは実質的に cénesthésie をどのように捉えたか。Georges Vigarelle, Le sentiment de soi. Histoire de la Perception du corps XVIe-XXe siècle, Editions du Seuil, coll. « Points Histoire », 2016 (première édition, 2014) を参照しながら要点を私なりにまとめれば以下のようになる。
 ビランはライルのいう身体の全体感を « sentiment d’ensemble, mode composé de toutes les impressions vitales inhérentes à chaque partie de l’organisation » (Nouvelles considérations sur les rapports…, op. cit., p. 125) だと規定している。それは、身体という一つの有機体の各部分に本来的に内属する生的印象すべてからなる様態である。
 この「全体感」こそ、生きている〈からだ〉のもっとも原初的な次元の直接的な把握であるとすることで、身体についての新たな探究の次元が開かれる。
 そこでの探究の対象になるのは、契機的に連続する諸感覚の束ではないし、原初の努力そのものでもなく、「全体」として感じられている〈からだ〉であり、それは、漠然としており明瞭に分節されていないが、諸感覚の混沌とした状態なのではなく、むしろそこからそれらの分節化された諸感覚が可能になるより原初的な身体の次元である。
 ライルは胎児においてすでにこの全体感は発生しているとする。
 « Sans elle, [sans ce sens vital intérieur, tout intime,] nous n’aurions aucune idée de l’application [ni de l’intensité variable] de nos forces physiques, dans la respiration, l’excrétion, la contraction musculaire, etc. » (Maine de Biran, op. cit., p. 126)
 この全体感は生理的でもあり心理的でもある。というよりも、そのような分岐に先立つ感覚であり、この身体の全体感の連続性がなんらかの仕方で断ち切られると自己の連続性が損なわれる。
 つまり、自己感はこの身体の全体感に基礎づけられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最大のソフィストは誰か? ― シモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』より

2024-08-17 18:23:22 | 哲学

 シモーヌ・ヴェイユは『ギリシアの泉』(La source grecque, Gallimard, 1953)のなかで、集団的言説を生みだすシステムを「巨獣」に譬えたプラトン『国家』の一節(第6巻)を引用しながら、詭弁を弄し人心を惑わせるとソフィストたちを非難する巷の人びとこそが「最大のソフィスト」だとソクラテスに言わせる。そして『国家』の一節をほぼそのまま引用する。「議会や法廷や劇場や軍隊など、大勢の人びとがつどう場所ではどこでもそうなのだが、集まった多数の群衆は、言葉や行動を大騒ぎして非難したり賞賛したりする。非難にしても賞賛にしても度が過ぎていて、やたらにわめきちらし、手をうち叩くのだ」(冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』、277頁)。

C’est, dit Socrate, quand une foule nombreuse réunie dans une assemblée, un tribunal, un théâtre, une armée, ou tout autre lieu de rassemblement massif, blâme ou loue des paroles ou des actes avec un grand tumulte. Ils blâment et louent à l’excès, ils crient, ils frappent des mains.

 「さらに彼ら自身に加えて、岩々や彼らのいる場所までが、その音声を反響して、非難と賞賛の騒ぎを倍の大きさにするのだ」(プラトン『国家』、岩波文庫、藤沢令夫訳)。つまり、その大勢の人たちがいる場所自体が「エコー・チェンバー」となって非難や賞賛が増幅され、それ以外はすべて「雑音」として排除されるか、そもそも聞こえてこない。
 上掲の引用のなかでプラトンが挙げている場所に SNS を付け加えれば、そこで言われていることは今私たちが生きている社会にそのまま当てはまる。誰でもがいつでもどこでも「最大のソフィスト」になりうる時代に今私たちは生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あらゆる人間の心の奥底の「聖なるもの」― シモーヌ・ヴェイユ『人格と聖なるもの』より

2024-08-16 18:06:04 | 哲学

 日本語で「期待する」と言うとき、「そうなってほしいと心の中で思っていること」(『三省堂国語辞典』)、「望ましいととらえられる事態の実現、好機の到来を心から待つこと」(『新明解国語辞典』)を意味するとすれば、フランス語の s’attendre が意味するところはそれとは微妙に異なる。「(あることの実現が当然のこととして)予想、予期される」ということで、こちらがそれを望む、欲するということはそこには含まれていないからである。
この違いを念頭に置いたうえで、次の文章を読んでみよう。

 Il y a depuis la petite enfance jusqu’à la tombe, au fond du cœur de tout être humain, quelque chose qui, malgré toute l’expérience des crimes commis, soufferts et observés, s’attend invinciblement à ce qu’on lui fasse du bien et non du mal. C’est cela avant toute chose qui est sacré en tout être humain.
                                        Simone Weil, La Personne et le sacré.

 ほんの小さな子どものときから墓場まで、あらゆる人間の心の奥底には、犯された罪、苦しめられた罪、目の当たりにした罪などの経験があるにもかかわらず、人は自分に悪ではなく善をなすことを(当然のこととして)どうしても予期するなにかがある。それこそがなにものにも先立ってあらゆる人間において聖なるものなのである。(私訳)

 この文章での s’attendre を「期待する」と訳すと誤解を招くおそれがある。なぜなら、人の心の中にはそうなって欲しいという期待があるということではないからである。人が自分に善を為すことを当然のこととして待っている、しかも抗しがたくそうであるなにかが心の底にはあり、それは万人においてそうなのだとヴェイユは言っているのだ。そのなにかは私の意志や願望に因らないいわば自然の傾向性とでも言うべきもので、この私(という人格)が善の到来を期待するかどうかによって左右されるものではない。だからこそ、それは、私の裡にあって私を超えた「聖なるもの」なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の動物に対する形而上学的優位という詭弁をどう解体するか ― フロランス・ビュルガ『動物、我が隣人』より

2024-07-30 17:11:07 | 哲学

 ビュルガの1997年の著作の次の箇所を読むと、彼女の伝統的動物観批判の要がわかる。

La reconnaissance de l’intelligence, de capacités d’apprentissage et d’adaptation, de relations sociales chez l’animal, ne porte aucunement atteinte au fait que l’être humain brille d’un éclat métaphysique, ce qui le rend ipso facto inégalable. Il suffit de faire de l’homme un autre en élaborant précisément cette altérité par opposition à l’animalité, qui en devient par définition le référent négatif, le contre-modèle. Nous voilà donc libérés de toute inquiétude éthique à l’égard de ce frère inférieur dont la dissemblance est d’autant plus forte qu’elle est ineffable et la ressemblance d’autant plus fallacieuse qu’elle se donne à voir. Ne retrouve-t-on pas intacte la leçon cartésienne ? C’est ce mécanisme argumentatif dont nous nous proposons de démêler les nœuds afin de déconstruire la thématique de la différence.

 知性、学習能力、適応力、社会性などを動物に認めることは、人間存在の輝かしい形而上学的優位性を少しも損なうものではない。人間存在の形而上学性という「事実それ自体」が人間を動物とは比較を絶した立場に置く。定義上否定的参照項・対立するモデルとして規定された動物性との対比において人間を「他なるもの」と規定することでそうした立場が確保される。そうなれば、動物という人間よりも劣った「兄弟」に対して倫理的配慮をする必要がなくなる。両者の相違は比較を絶したものであり、見かけ上の類似はその質的相違を見損なわせるだけである。
 ビュルガが本書で試みているのは、このような動物に対する人間の形而上学的優位論のメカニズムの核心を剔抉し、人間と動物との形而上学的差異という議論の構図を脱構築することである。