メーヌ・ド・ビランは1824年7月20日午後4時に逝去した。その前夜9時頃にビランは遺書を口述筆記させている。それ以前にも何通か書いた遺書があったが、それらを破棄し、本状が自分の最後の意思であることが遺書の最後に明記されている。この最後の遺書が以前に書かれた遺書とどこがどのように異なっているのかはわからない。
この最後の遺書の口述には4人の証人が立会い、口述された遺言は、公証人によって字句通り書き留められ、口述後公証人によって読み上げられ、ビランによって承認されたことを4人の証人が確認するという手続きを経た法的に有効な遺書である(Maine de Biran, Œuvres, tome XIII-3, Correspondance philosophique 1805-1824, Vrin, 1996, p. 892-894)。
遺書の前文には、身体的には病気であるが、その精神は健全であり、判断・記憶・悟性も確かであることが公証人および証人たちとの会話によって確かめられたと記されている。
遺書本体には、順に、妻に遺す不動産と動産、二人の娘に移譲される動産、家政婦へ支給される生涯年金の年額、召使いへの一時謝礼金額とビラン没後の給金の保証等についての簡潔な記述が続いているが、家政婦スゼット・デムランへの遺言が妻への遺言より若干長く、二人の娘へのそれより倍近く長いことが目を引く。
ビランは、自分の没後もスゼットが家に残り、妻と子どもたちに仕え続けることを望んでいる。妻と子どもたちがスゼットを大切にすることは、彼女が自分に尽してくれた間ずっと変わらなかった熱意と献身からして当然のことだと確信している。
このような遺書を死の前日に口述できたことは、先日19日の記事で引用した医師の以下の所見が必ずしも外からの上辺だけの観察に尽きるものではないことの一つの証左にはなるかと思う。
M. Maine de Biran conservait d’ailleurs toute la sérénité & tout l’usage, toute la force de son esprit. On aurait dit que son âme se rendait de jour en jour plus indépendante d’une organisation que l’on voyait s’affaiblir, se détruire, sans pouvoir opposer aucun obstacle à cette destruction qui fut consommée le 20 juillet 1824, sans effort, sans agonie, je dirai presque avec les apparences & le bienfait d’une mort subite.
メーヌ・ド・ビラン氏は、しかも精神のまったき平静さ、その十全なる運用、そのすべての力を保持していた。 彼の魂は、弱体化し自壊していくのが目に見える組織から日を追って独立していくかのようであったが、この自壊に対していかなる障壁も設けることはできず、1824年7月20日にその肉体の自壊は完遂された。しかし、そこには、強いてする努力も末期の苦しみもなく、いわば、ほとんど突然訪れた死の様相と恩恵を伴っていた。
最後の日記以後の約2ヶ月間の哲学者の沈黙は、その間の内面世界の「気象」を永遠に封印してしまった。しかし、内面世界のコロンブスたらんとしたビランは、その日記と諸著作とによって、いまだに発見されることを待っている無限の内面世界を無尽蔵の遺産として私たちに託してくれたのである。