万葉集には「君に恋ひ/ふ」という表現が三十例近くある。この「…に恋ふ」という表現について『古典基礎語辞典』は次のように説明している。
用法上の特徴として、上代では「…に恋ふ」のように、格助詞ニを受けるのが普通であるが、これは当時の人々が、「恋」を相手に求めて働きかける心理的活動ではなく、受動的に相手にひかれるものととらえていたためと思われる。平安時代に入ると「…を恋ふ」のような現代でも耳にする語法が一般的となり、意味も故人や遠い所を思い慕うように少し広がっていく。また、コフの主格も必ずしも一人の人間に限らず、「人々が光源氏を恋ふ」とか「うぐひすが昔を恋ふ」など、複数の人間や人間以外の例もあり、範囲が広がる。
「君に恋ひ」が第一句に置かれている歌は万葉集には七首ある。
君に恋ひいたもすべなみ葦鶴の哭のみし泣かゆ朝夕にして(巻第三・四五六)
君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも(巻第四・五九三)
君に恋ひうらぶれ居れば敷の野の秋萩しのぎさを鹿鳴くも(巻第十・二一四三)
君に恋ひ萎えうらぶれ我が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ(巻第十・二二九八)
君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに(巻第十一・二四〇九)
君に恋ひ寐寝ぬ朝明に誰が乗れる馬の足の音ぞ我れに聞かする(巻第十一・二六五四)
君に恋ひ我が泣く涙白栲の袖さへ濡れてせむすべもなし(巻第十二・二九五三)
七首それぞれの意を伊藤博『萬葉集釋注』に拠って示す。
「わが君に心ひかれ、何ともしようがなくて、葦辺に騒ぐ鶴のように、声をあげてだだ泣けてくるばかりだ。朝にも夕べにも。」(四五六)
「君恋しさにじっとしていられなくて、奈良山の小松の下に立ちいでて嘆いております。」(五九三)
「あの方に恋い焦がれてしょんぼりしている折も折、敷の野の秋萩を押し分けては、男鹿がしきりに鳴いている。」(二一四三)
「あの方に恋い焦がれ、しおれうなだれて私がいるあいだに、秋風が寒々と吹いて月は西空に傾いてしまった」(二二九八)
「あなたに恋い焦がれてしょんぼりしていると、腹立たしいことに、私の下紐がしきりにほどけてきて、紐を結ぶ手間を繰り返すばかりで。」(二四〇九)
「君恋しさに眠れもしなかったこの夜明けに、いったい誰が乗っている馬の足音なのか、この私に聞えよがしに通り過ぎて行くのは。」(二六五四)
「あなたに恋い焦がれて私が泣く涙、その涙は、袖までもぐっしょり濡れて、どうにも止めようがありません。」(二九五三)
つぎに各歌についての『釋注』の評釈の一部を引く。
「「葦鶴の哭のみし泣かゆ」は、「葦鶴」が大伴氏の本貫である難波の景物であることを意識した表現らしく、縁ある者、こぞって、大伴家の棟梁を哭き悲しむさまを述べたものと見られる。」(四五六)
「調べがまっすぐに強く流れ、嘆きが盛りあがっている。「小松が下に立ち嘆く」というのが単純かつ鮮明にして真率で、心を打つ。君を思うてじっとしておられず、わけもなく小松の下に寄って行く姿があわれである。」(五九三)
二一四三の歌には評釈なし。
「待っても待っても君は来ず、ついに月は傾いて夜が更けてしまったことを嘆いている。「萎えうらぶれ」ている作者のわびしさが「秋風吹きて月かたぶきぬ」によってよく生かされている。秋風に吹かれて月をひとり見つめている女の姿が浮かんでくるような歌だ。」(二二九八)
「「悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに」は、その光景が上二句「君に恋ひうらぶれ居れば」を生かすのに効果があり、感興も余りあって、なかなかいい。」(二四〇九)
「朝明けの蹄の音は、女の許から帰る男の馬が鳴らす場合が多いことを背景にしたのが二六五四である。よその男が帰るのを通して来ない相手を恨んだとも(『古義』)、相手の男がよその女に通って帰ると見て恨んだとも(『全註釈』)、取れる。後者なら『蜻蛉日記』の世界などが浮かんできて、王朝的情趣の先駆を見ることになる。が、実際は前者なのであろう。」(二六五四)
二九五三についても特に評釈と言えるような言及はない。
これら七首に共通していることは、恋い焦がれている「君」に会えていないことである。いずれの歌も、会いたくてしかたがないのに会うすべがない苦しみや悲しみやいたたまれなさを詠っている。「君に恋ひ」とは、ただ「受動的に相手にひかれ」ている状態のことではない。「恋」が生活の隅々までが浸透していて、何を見ても、何に触れても、何を聞いても、「君」のことばかりが思われ、でも会えなくて、身も細るばかりの状態であることをこれらの歌は示している。
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