内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

上代における「愛」と「恋」について(2)― 「愛」より根源的な「かなし」

2025-02-22 07:59:43 | 講義の余白から

 『古典基礎語辞典』は「かなし」の項にこの語に当てることができる漢字表記として「悲し・哀し・愛し」の三つを挙げている。今回の考察にとっては三つ目の「愛し」が特に重要だが、その場合でも、他の二つの漢字が含んでいるニュアンスがまったく排除されてしまうわけではない。
 同項の解説は以下の通り。

カナシは、…することができない意を添える接尾語カヌと同根。愛着するものを、死や別れなどで喪失するときのなすすべのない気持ち。別れる相手に対して、何の有効な働きかけもしえないときの無力の自覚に発する感情。また、子供や恋人を喪失するかもしれないという恐れを底流として、これ以上の愛情表現は不能だという自分の無力を感じて、いっそうその対象をせつなく大切にいとおしむ気持ちをいう。自然の風景や物事のありさまのみごとさ・ありがたさなどに、自分の無力が痛感されるばかりにせつに心打たれる気持ちをもいう。
中世から近世にかけては、貧困による悲哀の意から、カナシがそのまま貧困を意味するとされる例がある。

 語釈の一番目は「悲しい」「せつない」。「現代の「かなしい」と基本的に同じである」とされる。用例として、万葉集の大伴旅人の名歌「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」(巻5・793)を挙げている。この歌の原文は「余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊与余麻須万須加奈之可利家理」と一字一音の万葉仮名で表記されているので訓みに紛れはない。
 しかし、まさにそうであるからこそ、「悲」という漢字をあてていいのかどうか、すこし躊躇われる。ここをあえて「かなしかりけり」平仮名表記することによって、あるいは、文字表記を念頭から振り払い、「カナシカリケリ」と音に特に注意することで感じられるニュアンスがあるように思う。この歌についてはこのブロクでも数回取り上げているが、特に2014年1月11日2020年10月12日の記事を参照されたい。
 語釈の二番目は「せつないほどいとおしい」「かわいくてしかたがない」。用例として万葉集・巻第十八の長歌四一〇六から「父母を見れば尊く 妻子見れば愛しくめぐし」が挙げられている。原文は「可奈之久米具之」であるから訓みに紛れはない。ただ、注釈書によって、「可奈之」を「愛し」としているのもあれば、「かなし」と平仮名表記にしているものもある。
 万葉集における「かなし」の用例は、数からすると巻第十四の東歌のそれが過半数を占める。「かなしき」「かなしけ」(「かなしき」の東国形)「かなしも」などの形で歌語として頻用されている。古文の教科書に東歌の例としてよく載っている「多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだかなしき」(3373)はその代表例である。
 この歌についても、原文「可奈之伎」を平仮名表記にしている注釈書もあれば、「愛しき」と表記しているものもある。
 この歌が詠まれたとき、あるいは朗唱されたとき、つまり「カナシキ」と発語されたとき、「愛」という漢字固有の含意はまだ混入していなかったのではないかと推測される。万葉人にとって「カナシ」は「愛」よりも根源的な感情だったのではないかと私は思う。