どんなに偉大な皇帝であっても、臣民すべてを病気から守ることはできないし、事故や災害から守ることもできない。個々が感じる負の感情を取り除くこともできない。
エピクテトスによると、哲学者の教説はこれらの不幸や災厄に対しても平和を与えることを約束しているという。ほんまかいな?
「みなさん、もし私に心を向けるならば、どこにいても、何をしていても、苦しめられたり、腹を立てたり、強制されたり、妨げられたりすることはないだろう。感情に動かされることなく、あらゆるものから自由になって暮らすことができるだろう。」
こんないいことずくめのうまい話があったら誰だって飛びつきやしませんか。誰がこんな新興宗教の教祖みたいなことを言っているの? それは「神によって理性を通じて宣言されたもの」である。これじゃぁ、「ははー」とひれ伏す他なく、ちょっと水戸黄門の印籠みたいじゃありませんか(喩えが古くて恐縮です)?
「人がもしこれを手にするならば、たとえひとりでいても満足ではないか。」そりゃあ、そうでしょうよ。だって、その人はみずからを省みて次のように考えるからです。
「今や私にはどんな悪いことも起きることはありえない。私には盗賊はいないし、地震もなく、すべてが平和に満ちており、すべてが平静に満ちている。あらゆる道が、あらゆる都市が、あらゆる旅の道づれ、隣人、仲間が無害である。そして、食物を務めとしている神はこれをあたえ、別の神は衣服を、別の神は感覚を、別の神は先取観念(反省に先行する自然発生的・予断的概念)をあたえてくださった。」
ここまで読んだだけでは、「そんなうめぇー話あるわけねぇだろうが、バカにすんねぃ! だからテツガクシャなんて輩の御託は信用できねぇんだよ!」とブチ切れるのがフツーじゃないですかね。
ところが、この後に来る話がエピクテトスの真骨頂なので、もう少し辛抱して彼の話を聴いてみましょうか。
しかし、必要なものがあたえられないときは、勧めるにふさわしいことを示し、ドアを開けて「来なさい」と君に告げる。どこに行くのか。少しも恐ろしいところではなく、君がそこから来た親しく同族的なるもの、すなわち基本要素の中に行くのだ。
キ、キホンヨーソ? なにそれ?
君の中で火であったものは火に、土であったものは土に、気息であったものは気息に、水であったものは水に戻ってゆく。
確かにこうなってしまえば、つまり、おっちんじまえば、悲しみも怒りも不幸も災厄もありゃしない。でも、これじゃあ、それこそ実も蓋もない話じゃありませんか。
すべてが神々とダイモーンに満ち満ちているのだ。
人がこのような考えをもつことができ、太陽や月や星々を眺め陸と海を楽しむならば、少しも孤独ではないし、頼るものがないわけではないのだ。
なんか、これって、しゃべってる自分だけいい気分になってんじゃねぇ、って思いませんか。だから、こんな質問も出るわけです。
「ではどうなりますか。だれかひとりぼっちでいる私のところにやって来て、私を殺すとしたら。」
さて、この問いにエピクテトスはどう答えるでしょうか?
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