馬鹿だね、その人は君ではなく、君の小さな身体を殺すのだ。
これが昨日の記事の終わりに出てきた問い―おそらくはニコポリスの学校でエピクテトスの講義中に弟子のひとりが発した問い―に対するエピクテトスの答えです。
エピクテトスは、師ルフスを受け継いで、講義において聴講者が自分の欠点を目の前にみせつけられるような鋭い話し方したことが『語録』(高弟アリアノスによるエピクテトスの講義録)からわかります。
でも、これ、今日日(きょうび)の大学の教室でやったら、学外第三者で構成されるハラスメント調査委員会に訴えられちゃうかも知れませんよね。授業に出席している他の学生たちが証人になる(スマホでこっそり撮影されているかも知れないし)わけですから、言い逃れもできず、さすがに懲戒免職や依願退職にはならないにしても、三ヶ月間給与10%カットくらいの処分は受けてしまうかも知れません。
ここは、「いい質問ですね。その人は、そのとき、いったいあなたの何を殺すことができるのか、いっしょに考えてみましょうか」とかなんとか、質問してくれた学生(つまりクライアント)にもっと「寄り添った」対応をすることがいわゆるコンプライアンスってやつですよね。
まあそれはともかく、エピクテトスの話の続きを聴きましょうか。
そうすると、なおどんな孤独が残っているのか、どんな困ったことがあるのか。どうしてわれわれは自分を小さな子供よりも劣ったものにするのか。子供はひとりぼっちに残されたときは、何をするのか。陶片と灰を集めてなにかを作ると、それからそれを壊して、また別のものを作る。こんなふうにして時を過ごすのにけっして困ることはない。私のほうは、君たちが船出すると、座ってひとり残されたぞ、こんなふうに孤独になったぞと言って泣くのだろうか。私には陶片も灰もないのだろうか。子供がそんな遊びをしているのは愚かなせいで、私が不幸なのは賢いからだろうか。
なんか、少しも説得された気分にならないんですけど。むしろ、この話がわからないとしたら、それは君が子供より馬鹿だからだと軽蔑されているような気分になるのは、私の度し難い僻み根性のせいでしょうか。
第一三章のこれ以後の段落は、内容的にこれまでの議論と接続しておらず、「おそらく別の談義がここに紛れ込んだものと思われる」(岩波文庫訳注)ので省略します。
「孤独」をめぐるこの章のここまでの議論を強引に一言でまとめてみましょう。魂の指導的部分(ヘーゲモニコン)である理性は、「君の小さな身体」が殺されても滅びはせず、その理性の声に聴きしたがって生きれば、いついかなるときも君は孤独ではなく、そのように生きることが幸福な善き生なのである。
牽強付会を承知でこれをさらに箴言風に圧縮すると、「板垣死すとも自由は死せず」の顰に倣って、「身体死すとも理性は死せず」となりますでしょうか。
ちなみに、国立こども図書館のサイト内の「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」中の板垣退助のページによると、板垣退助が1882年岐阜で演説中に刺客に襲われたときには、「吾死するとも自由は死せん」と言ったそうで、それが後に「板垣死すとも自由は死せず」と言い換えられて人口に膾炙するようになったとのこと。それに、板垣はこの襲撃によって命を落としたわけではなく、この後も政治家として精力的に活動しました。
話が思わぬ方向に逸れてきたので、ここらへんで御暇いたします。皆様、ごきげんよう。
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