内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

精神的生の悲劇的な自己葛藤 ― ゲオルグ・ジンメルの生の哲学について―

2013-09-01 02:51:00 | 哲学

 6月2日にこのブログを立ち上げたときは、ちょうどその年度の大学での授業がすべて終わり、ごくわずかの追試の監督・採点と成績判定会議を除けば、大学関係の年度内の仕事が終わりかけている時期だった。その頃、精神的には危機的とも言えるほどに追い詰められていたことはすでに昨日までの3日間の記事でかなり詳しく記述したわけだが、パソコンに向かう時間だけは、だから、毎日比較的自由に確保することができた。それで8月末までは毎日いくらかまとまった内容の記事を投稿することができた。もちろん、旧稿に若干の修正を加えただけの記事を投稿した日もあったし、そのような旧稿とそれに対するコメント、あるいはその日の感想をそれに一言加えただけで「お茶を濁した」日もあった。しかし、新学年仕事始めの明日から10月末の万聖節の休暇が来るまでの約2ヶ月間は、記事を書くためにパソコンに向かう時間を確保することさえままならない日も出てくることだろう。したがって、明日以降、毎日投稿を原則とはするが、日によっては、ほんの一言、後の思索のための覚書あるいはその日の雑感を書き留めるだけの短い記事になるかもしれない。
 さて、今日はゲオルグ・ジンメル(1858-1918)の「生の哲学」について。芸術・文化・貨幣・都市・流行などという多元的なアプローチが可能でもあり必要でもある研究対象についての哲学的考察の好例として、また、「生の哲学」としてよく一緒に括られ、実際書簡のやりとりもあり、思想的にも影響を受けたベルクソンとの親和性と異質性という問題意識から、ジンメルの諸著作には以前から関心を払ってきた。それに、当時はドイツ領だったとはいえ、ジンメルが1914年にストラスブール大学の哲学の正教授に任命され、4年後にそのストラスブールで亡くなっていることから、90年近く後にその地で哲学を学んだ者の1人として、幾ばくかの親近感をこの哲学者に抱いていたということもある。
 ジンメルは、「生の哲学」の潮流を代表する哲学者の一人として、また形式社会学の提唱者として、日本でも昭和の初期から読まれてきたようだが、白水社から1978年に刊行された『ジンメル著作集』(全12巻)が2004年に限定復刊されており、1990年代から2000年代にかけて相当数の著作の邦訳が復刊あるいは新訳で出版されているところからも、今でも日本では一定の関心を持たれているようだ。
 フランスでもジンメルの主要な著作はすべて仏訳されており、2000年代以降、旧訳の復刊、新訳の出版が相次いでいる。つい数日前に私が購入したのは、La forme de l’histoire et autres essais (Gallimard, coll. « Le Cabinets des lettrés », 2004), Kant et Goethe (Gallimard, coll. « Le Cabinets des lettrés », 2005), Les grandes villes et la vie de l’esprit, suivi de Sociologie des sens (Petite Bibliothèques Payot, 2013), Philosophie de la mode (Édition Allia, 2013) の4冊 。今私の手元には、この他に、Philosophie de l’amour (Rivage poche / Petite Bibliothèque, 1991), La Tragédie de la culture (Rivage poche / Petite Bibliothèque, 1993, この本には、「前書き」としてジャンケレヴィッチが22歳のときに書いた75頁にも及ぶジンメル論が収められて、その中で、ベルクソンとの思想的親和性にもかかわらず、生の本質直観についての両者の間に決定的な対立があることが鋭く指摘されている), Michel-Ange et Rodin (Rivage poche / Petite Bibliothèque, 1996), Rembrandt (Circé, 1994), Philosophie de la modernité (Payot, 2004), Rome, Florence, Venise (Édition Allia, 2006) 。いずれも煌めくような洞察がいたるところに鏤められた極めて魅力的で刺激的なエッセイ集ばかりだ(ただし、『レンブラント』だけはモノグラフィー。ジンメルの最も重要な著作の一つ)。主著とされる大部な2著『社会学』と『貨幣の哲学』の仏訳も本棚のすぐに取り出せるところに並べてある。
 購入書の2冊目に挙げたKant et Goethe(邦訳は、1928年に谷川徹三訳『カントとゲエテ』が岩波書店から出版されている)の仏訳者の「前書き」の最後の脚注にジンメルの別のエッセイ「現代文化の葛藤」からの引用があって、それが生の本質について改めて考える手がかりを与えてくれた。その引用には一部省略部分があるので、以下の邦訳は、Philosophie de la modernité (Payot, 2004) 所収の « Le conflit de la culture moderne » (独語原典 « Der Konflikt der modernen Kultur » は1918年、ジンメルの没年に発表されている)からの当該箇所の全訳(つまり仏訳からの重訳)である(邦訳は『ジンメル著作集』第6巻に収録されているようだ)。

「生の本質は、自らの外に、自らを導き補うもの、自分に対立するもの、勝ち誇った犠牲者を生み出すことにある。生が維持され、高められるのは、自らが生み出したものにいわば間接的に支えられてのことである。自分が生み出したものが自分に対立し、自律性を獲得し、導き手となるというこの事実は、まさに生にとって本源的な現実であり、それが生の有り方なのである。その頂点において生が到達するところのこの対立は、精神としての生の悲劇的な葛藤であり、この葛藤は、生が自らそれを生み出していることに、それゆえ自らに有機的かつ不可避的に結びついているものであることに生が自覚的になるにつれ、今や当然のなりゆきとしてより顕著になりつつある。」(398頁)

 動物的生の次元に、ましてや生物的生の次元に自らを還元することをもはや禁じられた精神的生は、この「悲劇的な葛藤」を生きるほかなく、それは自ら創り出した生の形を受け入れつつ、それを介して新たな形の創造へと絶えず向かうことによって、どこまでも自らに対立するものを通じて、自己を表現し続けるか、あるいはある形に安住することで自らの死を受け入れるか、常に選択を迫られている。生き方としての生の哲学とは、ある1つの表現形式への固着化・固定化を拒否し、精神的生にとって不可避である悲劇的な葛藤を、生成された既得の表現形式の絶えざる批判的検討・更新・修正・改良・否定、そして新たな表現形式の創意工夫を通じて、どこまでも生き抜くことにほかならない。