内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

思想史学的研究から哲学的研究へ ― 可塑的共同体の論理としての「種の論理」

2013-09-14 01:00:00 | 哲学

 今朝(13日)は日曜日以来4日ぶりのプール。昨日の木曜日の授業は午前11時半からなので、朝プールに行ってからでも十分に間に合う時間なのだが、昨日書いたように講義の予習が朝までかかってしまったので諦めざるを得なかった。今朝は意外に空いていて、背泳ぎを主にいつもよりハイペースで泳ぐ。
 午前中は、自宅で追加の学科入学許可書の作成、PDF版で志願者当人と教務事務とに同時送信。これで今日中に志願者たちは登録できる。すぐに本人たちから感謝のメールが届く。
 午後は小林論文の仏訳。だが2日続けての睡眠不足のせいか、途中で睡魔に襲われ、一時間半ほど午睡。おかげで頭もスッキリした。仏訳は日にA4で1枚というペースを自分に課しているが、順調に行けば来週末には訳し終わるだろう。
 今日はこれからベクソン国際シンポジウムでの自分の発表のタイトルと要旨を考える。明後日の締め切りには十分間に合うだろう。今年度前期は講義が水・木だけで、金曜日は出講しなくていいのは助かる。しかし、2週間後にはマスターの授業とイナルコの授業が始まり、そうなると水曜日は午前8時45分から午後3時までが本務校、午後5時半から7時半までがイナルコというかなりハードな1日になる。

 以下はアルザスの発表原稿の結論の最後部分。明後日の要旨ができたら、集会当日まで少しずつ手を入れて原稿全体を発展させていくつもり。

 家永三郎は『田辺元の思想史的研究』の「結論」の末尾で、「結論として完成された理論のすべてを積極的に評価できなくても、その内に貴重な問題提起が、あるいはそれから有効な思想展開の可能性が含まれている場合に、それを掘り出し、精神的遺産のカタログに加え、将来への思想的営為のために活用する途を開くのが思想史学の大切な任務のひとつ 」であると規定し、まさにそれゆえに同書を書いたと言う。田辺哲学の「マイナスの要素を洗い落とし、継承発展させて行くに値するプラスの要素をどのように活用することができるのか 」という課題には、同書で「可能なかぎり論じておいたつもり」と自ら成し遂げた任務を評定する。そしてこの課題について、それを「実践的な観点から深く立ち入って考えることは、もはや思想史研究者の任務ではなく、思想家・哲学者のなすべきことがらであると思われる 」と締め括る。この思想史的研究と哲学的研究との役割分担規定に従うならば、田辺哲学の哲学的研究はようやくその緒についたばかりだと言わなくてはならないのではないであろうか。
 以下に示すのは、これからのそのような哲学的研究のためのひとつのささやかな準備的なメモである。
 〈種〉の可塑性
 「種の論理」は、絶対媒介の哲学の論理であるかぎり、〈種〉の非実体性・可塑性を基本的テーゼとするものでなければならない。〈種〉は流動的、多元的、多層的でありうる。
 反実体主義
 「種の論理」は、徹底した反実体主義であり、絶えざる否定的媒介を通じた反形而上学的実践の論理である。
 同一性の動態化
 絶対媒介の哲学はあらゆる媒介項の自己同一性を動態化する。したがって、個のいかなる集団への同一化・没入も原理的に否定される。
 可塑的共同体の論理としての種の論理
 上記の三つの基本的テーゼから導かれうるのは、民族の自己同一性の相対化であり、個と種の間の自発的・限定的・可変的共同性の構築の可能性である。それは一方で「近代市民社会に固有なる原子論的思想 」の克服を可能にし、他方で仮説的可塑的集合的同一性の共有の可能性を開く。この共同性はそのうちに葛藤・対立・自己解体の可能性を内包する。非同心円型-ネットワーク型社会形成の論理としての可能性を持つ。