内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

受苦智学 ― ヴァイツゼッカーのパトゾフィーについて

2013-09-05 02:38:00 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』の邦訳には、訳者の一人濱中淑彦による「解説」が巻末に付されていて、そこにヴァイツゼッカーの思想の発展・深化の過程が伝記的記述とともに簡潔にまとめられている。その一節を以下に引く。

彼の著作は哲学、心理学、内科学、神経学、精神医学のみならず宗教の問題にも触れるが、しかし彼は単なる境界領域の研究者ではなく、より包括的かつ根本的な立場から、透徹した論理と逆説、弾力に富む執拗な思索、パトス的洞察によって、「病める人間の学」としての医学的人間学から、世界のうちにある一切のものの連帯性を受苦 Leiden の様相のうちに求めるパトゾフィー Pathosophie へと歩を進め、それによって自然科学と自然哲学、生理学と心理学、機械論と生気論、唯物論と唯心論、無神論と有神論という近代の二元論に由来する対立がその深刻さの度合いをいや増して行き、しかも前者が後者に対してますます優位を占めつつあったヨーロッパの精神史的情況を超克せんとしたのである(379頁)。

 この一節に出てくる「パトゾフィー」という言葉は、解説の別の場所では、「パトスの知」あるいは「パトス学」と言い換えられているけれど、誤解を招きやすいと私は思う。なぜなら、パトス(受苦)についての知やそれを対象とした研究ということが主たる問題なのではなくて、受苦という知の根源的な有り方こそがここでの根本問題だから。強いて日本語にすれば「受苦智学」とでもなるだろうか。この言葉は、ヴァイツゼッカーの最終的な思想に冠された名称であるばかりでなく、この偉大なる百科全書派的医学者の最後の著作の書名でもある。邦訳は、長年ヴァイツゼッカーに私淑し、その思想から独自の理論を展開している木村敏の訳で、みすず書房から2010年に刊行されている。私はこの邦訳を所有しておらず未見だが、同書房のサイトの「トッピクス」欄に同書の簡単な紹介と引用があるので、ご興味のある方はどうぞそちらをご覧になってください(定価9288円とお高いざます)。私の手元にあるのは、2011年にJérôme Millon社の 選書 « Krisis » の1冊としてドイツ語原版と同一の書名 Pathosophieで刊行された仏訳(定価30€だが、ソルボンヌの行きつけの古書店で新本同様なのを半値の15€で入手!)。6人の訳者による共訳だが、達意の良訳だと思う。
 途方もない僭越であることを重々承知のうえで敢えて言えば、上に引いた解説のなかの「世界のうちにある一切のものの連帯性を受苦 Leiden の様相のうちに求めるパトゾフィー」は、私がこのブログですでに何度か話題にした自分の哲学的構想「Passibilité(受容可能性あるいは受苦可能性)の哲学」とその問題意識においてまさに重なり合う。1948年から1953年にかけて執筆され、逝去の年1956年に初版が刊行された、壮大な生命の思想が濃縮されたこの記念碑的な大著を細心の注意をもって読むことが、生命の大海原の上の終わりなき思索の航海へと乗り出す勇気とそのために必要な豊かな精神的滋養を必ずや与えてくれることだろう。