内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

社会存在の実践的論理としての「種の論理」

2013-09-11 03:51:00 | 哲学

 今朝(10日)いつものようにプールに行ったら予告なしの職員のストライキで閉鎖(Ça arrive souvent en France.)。午前中は小林論文の仏訳。これは順調に捗る(Ça avance bien.)。午後から大学。いくつか書類を処理してから学科の文明講座担当者間の分科会。帰路駅で30分近く待たされる。その間いっさいアナウンスなし(J’en ai marre ! Ça suffit maintenant.)。
 月曜朝にアルザス欧州日本学研究所での研究集会責任者に発表原稿を送った。翌日火曜日つまり今日、その責任者から発表者8人全員の要旨は送られてきたが、発表原稿は私のだけが添付されていた。ということは、私だけが律儀にも責任者の要求に忠実に応えたということらしい。その発表原稿の新たに書き加えた「序」を以下に転載する。

 本稿の目的は、田辺元の「種の論理」を社会存在の実践的論理として批判的に検討することにある。田辺のそれ以前の主に自然科学を対象とした科学哲学的業績、カント批判哲学研究、ヘーゲル弁証法研究、西田哲学批判などに代表される「種の論理」に直接する前史、戦争末期から戦後にかけての「種の論理」の自己批判を経て後の哲学的転回・発展・深化等については、これらを検討の対象から除外する。伝記的事実にも言及しない。これらの研究対象限定の手続きは、しかし、田辺哲学の膨大な業績のうちからその一部だけを切り離して俎上に載せ、今日の事後的かつ外在的観点から、その論理的欠陥、事実上の錯誤・挫折を論うためではない。このような安易な批判あるいは単なる誹謗・中傷は、戦後すでに十分繰り返されてきたし、そのような特定の立場からする、あるいは状況依存的な一方的な否定・拒否・断罪には、何らの学問的生産性を見出すこともできない。田辺自身によっても戦時下の過酷な現実を前にその限界が認識されていた「種の論理」を今日敢えてそれとして検討するのは、理論的観点からあるいは歴史的事実としてそれ自体は覆うべくもない負の要素にもかかわらず、「種の論理」が一個の社会存在の実践的論理として、今日なお現実分析の装置として有効に機能しうる可能性を持っているかどうかを問うためである。言い換えれば、私たちが直面する現代社会の現実を分析し、そこに生じている諸問題に具体的かつ有効な仕方で取り組もうとするとき、「種の論理」がその実践の戦略を練るための一つの理論的拠点を与えてくれるかどうかを問うためである。