内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「種の論理」の批判的考察(3)

2013-09-26 05:05:00 | 哲学

 今日(25日水曜日)は、23日の記事でもその理由を説明したように、ハードな1日だった。朝8時に遅れて登録した学生の一人と面談。8時45分からの1年生の「日本文明」の授業では、途中でインターネットへの接続が切断されてしまい、学生たちに見せようと準備しておいたサイトへのリンクを使えず、急遽来週から本格的に話す予定のテーマを先取りするかたちになり、学生たちの集中力もそれで途中で切れてしまい、ちょっと教室がざわついてしまった。TD(演習)の方は接続も回復し、まあまあ大過なく終了。45分休憩して、午後1時から修士の授業「専門日本語:経済」の第1回目。15名の出席者のうち男子学生は1人だけ。学部からの進級組の一人なのでよく知っている学生の1人。心細そうであった。今日は全般的な説明を前半1時間した後、出席者全員に日本語で自己紹介させ、レベルをチェックする。大抵の場合そうなのだが、外部から来た学生たちの方が日本語はできる。パリ第7大学から3名、リヨン大学から1名。オルレアン大学から1名。中国から1名。皆かなり良く日本語ができる。特に1年間の日本への留学経験をもっている2名は、当然といえば当然だがよくできる。中国人学生は日本語能力試験の1級をもっており、やはりよくできる。彼女たちがリードしてくれれば、全体としてのレベルアップも期待できるだろう。初回ということもあり、女子学生が圧倒的多数ということもあり、私が説明していた最初1時間はあまりにも皆おとなしい様子なので、これから授業で喋らせるようにするのに苦労するかなあと危惧したが、自己紹介をさせてみて、安心した。話をうまく振れば何人かはかなりよく反応してくれそうだ。
 その授業が終わるとすぐに電車に飛び乗り、パリに戻る。一旦自宅に戻り、小1時間休憩。そして「同時代思想」の講義を行うイナルコへメトロとバスを乗り継いで向かう。住んでいるアパルトマンと同じ区内にあるので移動には30分を見れば十分。教室には授業開始時間の6,7分前に到着したが、すでに10人以上の学生が教室で待っていた。持参したラップトップ型パソコンを立ち上げて開始時刻を待っていると次から次へと入室してくる学生があり、開始時刻には定員24名の教室がほぼ満席。開始後も遅れて来た学生があり、他の教室から持ってきた椅子を通路に置いて聞く学生もいた。これはまったく予想外だった。授業の後で、学生としては登録していないが聴講してもいいか聞きにきた老婦人も1人いた。もちろん喜んで許可した。ちょうど2時間しゃべり通したが、途中で出たいくつかの質問に答えたこともあり、準備していたことの半分くらいしか喋れなかった。しかし、調子のいいの時はいつもそうなのだが、話していると自ずと次に話すべきことが浮かんできて、講義の準備メモとして用意しておいたパソコンの画面をほとんど見ることなしに、板書も交えて学生たちの顔をみながら話し続けることができた。これは私にとってもっともうまく授業がいくパターンである。こういう時は軽い冗談も自ずと口をついて出るものなので、うまく学生たちの緊張もほぐすことができた。小さい教室ということもあり、学生たちの集中度は手に取るようにわかるのだが、最後までほとんど落ちることはなかった。このようにして、今年の「同時代思想」の講義はこれ以上望めないほどいい形でスタートを切ることができた。ちなみに、田辺の「種の論理」についても一回の授業を充てて講義で取り上げる。おそらくこれがフランスの大学の通常の講義で田辺哲学が取り上げられる初めての機会となるだろう。
 というわけで、気分的には充実感をもって午後8時過ぎに帰宅することができたが、朝からずっとしゃべり通しではあるので、やはり疲れた。私としては非常に遅い夕食を今さっき済ませたところで(現在時刻午後10時)、この記事を書いているが、さすがにもう「種の論理」の批判的考察についての原稿に何かを書き加えるエネルギーは残っていない。原稿のごく短い一節を下に再録するに止めざるをえない。

 4/ 「種の論理」と「絶対媒介の弁証法」とのアポリア
 この根本的な理論的困難は、「種の論理」の形成過程において、高橋里美によって指摘されるが 、その批判を受け止めた田辺は、種の直接性を否定する「絶対媒介の論理」によって、その克服の方向を示す。それによって「種の論理」が内在的に自らの理論的困難を乗り越えることが可能になる。しかし、それだけではなく、この方向への論理の徹底化によって、「絶対媒介の哲学」―自体的存在の徹底的排除、根本的非実体化の論理、徹底的相対化の原理、無窮の動態構造の論理―の構想が可能になる。ここに本稿は「種の論理」が内包する積極性を見る。