内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

持続する知性 ― ポール・ヴァレリーの『カイエ』について

2013-09-03 02:53:00 | 雑感

 新学年初日の昨日月曜日朝、2月振りに(!)キャンパスに出向く。ヴァカンス中に何か変わったところがあるかと思ったが、何もなさそう(少なくとも見かけは)。午前中、学科の新入生全体オリエンテーションにコース責任者の1人として出席。300人収容の階段教室一杯の新入生。毎年年度初めは、これから始まる大学生生活への期待感に胸を膨らませて真剣な眼差しでこちらの説明に耳を傾ける学生たちを前に、こちらも新鮮な気持ちにさせられる。しかし、そんな気持ちに浸っていられる時間はなく、これから数週間は、ヴァカンス中に全面的に停止していた大学の機能が一気に再起動させられるとともに、一挙に処理案件が襲ってくる。なんでもっと段階的に予め処理しておかないのかと毎年思うのだが、これがフランスであり、こっちが合わせるしかない(C’est comme ça en France.)。昼は、新学科長の提案で、大学付近のレストランで各コースの責任者である副学科長たちと学科長、前学科長との昼食会兼学科総会前の打ち合わせ(C’était sympa.)。レストランに着いてから研究室に財布を忘れてきたことに気づく。中国人の同僚に立て替えてくれと頼んだら、おごってくれた(Merci !)。この次はおごると約す(C’est promis.)。午後、学科総会。英語とスペイン語の非常勤・契約講師等に大幅な入れ替えがあり、始めてみる顔が多かった。5時には終了。日本人の同僚と帰りの電車の中で今年度の打ち合わせ。さあ、新年度が始まった(C’est la rentrée !)。

 中井久夫のヴァレリーに関するエッセイを読んでいて、ヴァレリーの『カイエ』を読んでみたくなった。これはいわゆる文学作品ではなく、ヴァレリーが生涯にわたって綴り続けた思索ノートである。これまでは『カイエ』から引用された断章をあちらこちらで読んだことがあるだけで、『カイエ』そのものをまとめて読んだことはなかった。早速、テーマ別に編集された2巻からなるプレイヤード版を購入した。届いてすぐに編者の「前書き」の冒頭を読んで、それだけで衝撃にも近い感動を覚えた。
 「ヴァレリーの『カイエ』はおそらくフランス文学の中で類稀なものである。1894年から1945年まで、ほぼ毎日、午前4時から7時ないし8時まで、暁方の孤独の中で書かれたそれらは瞑想的生の集成であり、それらによって私たちは1つの偉大なる精神が自ら提起した知的諸問題と日常的に格闘する姿を詳細にわたって辿ることができる。これらの膨大なノートは、様々な大きさの261冊の手帳に書き留められ、そのオリジナルのファクシミリは26600頁に及ぶが、そこにはいわゆる身辺雑記としての日記の様相はほとんど見られない。それらは主として省察と抽象的な探究の記録であり、その中でヴァレリーは21歳から死の年までの彼の内的生を支配した根本的な問いをたえず己に問い直している。『人間の思惟の本性はどのようなものか』『その機構はどのようなものか』『その可能性と限界はどのようなものか』」
 20世紀最高の知性を具現した1人による半世紀を超える日々の思索の勤行! ヨーロッパのこのような知的エネルギーの持続性にはやはり畏怖すべきものがある。フランスの19・20世紀に限ったとしても、そして私が特に関心を持つ領域に絞ったとしても、ベルクソン、クローデル、ヴァレリーの3人は継続的に数十年間読み込み続けなくてはならないと思う。