内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「燃えるような生命の思想」― ヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』について

2013-09-04 02:35:00 | 哲学

 ヴァイツゼッカー(1886-1957)の『ゲシュタルトクライス』(初版1940年。邦訳は、木村敏・濱中淑彦訳、みすず書房、初版1975年、新装版1995年。原書第4版に基づき、初版から第4版までの「序」をすべて収録している)の初版のために1939年11月に書かれた「序」は何度読んでも感動する。その最初の2段落を引用する。

 生命あるものを研究するには、生命と関わりあわねばならぬ。生命あるものを生命なきものから導き出そうとする試みは可能かもしれぬ。しかしそのような企ては、これまで成功してこなかった。或はまた、学問においては自分自身の生命を無視しようとする努力も可能かもしれぬ。しかしそのような努力の中には自己欺瞞が隠されている。生命は生命あるものとしてわれわれの目の前にある。生命はどこかから出てくるものではなくて元来そこにあるものであり、新たに開始されるものではなくてもともと始まっているものである。生命に関するいかなる学問の始まりも、生命それ自体の始まりではない。むしろ学問というものは、問うということの目覚めと共に、生命のまっただなかで始まったものなのである。
 したがって学問が生命から跳び出すありさまは、眠りからの目覚めに似ている。だから、よく行われているように生命のない物質、つまり死せるものを出発点とすること、たとえば有機体の中に見出される化学的元素をいちいち数えあげたりすることを出発点とすることは間違っている。生命あるものは死せるものから発生するのではない。生命なきもの、或は無機物を、死せるものと同一視することすら、明確さを欠いたことである。なぜなら、そのような同一視は、死せるものが生命あるものから生じるかのごとき感を抱かせるからである。生命それ自体は決して死なない。死ぬのはただ、個々の生きものだけである。個体の死は、生命を区分し、更新する。死ぬということは転化を可能にするという意味をもっている。死は生の反対ではなく、生殖及び出生に対立するものである。出生と死とはあたかも生命の表裏両面といった関係にあるのであって、論理的に互いに排除しあう反対命題ではない。生命とは出生死である Leben ist : Geburt und Tod.。このような生命がわれわれの真のテーマとなる。

 ヴァイツゼッカーは、若き日に生理学と哲学でその才能を認められながら、大学では内科学を学び医学者となり、神経学研究における権威と認められてから、医学的人間学の構想を抱くようになる。引用した「序」に宣言されているのは、まさに雄大な「生命の思想」であり、この思想が開くパースペクティヴに従えば、生命そのものから生まれた生命自身への根本的な問い、「生命とは何か」「自己とは何か」「存在とは何か」などの問いから哲学が生まれてきたと言うことができるのではないだろうか。もしそう言うことが許されるのなら、哲学とは生命の根源的自覚過程にほかならない。