『重力と恩寵』には、一見すると、『根をもつこと』と真っ向から対立する内容をもった断章が見られる。「九 脱‐創造」の終わりには次のような断章群がある。引用はいずれも岩波文庫版からで、そのなかにはティボン版に依拠したその他の翻訳には含まれていない断章もある。
みずからの根を断たねばならない。樹木を切り倒し、それで十字架を作り、日々、この十字架を担わねばならない。
社会的にも植物としても自身の根を断つこと。
あらゆる地上の祖国から自身を追放すること。
かかる仕打ちを外部から他者に加えるのは、脱―創造の代替であり、非実在を生みだす。
だが自身の根を断つどきは、より多くの実在を求めているのだ。
自我であってはならない。だが集団的自我である〈われわれ〉はさらによくない。
都市はわが家にいる感覚を与える。
流謫の地にあっても、わが家にいる感覚をもつこと。
都市は根こぎへといたる代替である。
不幸にも、根づきを変容させる手掛かりも得られぬままに根を失ってしまうなら、いかなる希望が残されているというのか。
場所のないところに根をもつこと。
これらの断章が書きつけられたのは主にマルセイユにおいてであり、『根をもつこと』の執筆時期に先立つ。『重力と恩寵』の基である「カイエ」は、「一義的には自分のための覚書だから、記述は単刀直入で、略記も多い。ヴェイユには時間がなかった。もともと頑健ではないうえ、過労と焦燥で健康は蝕まれていた」(岩波文庫版『重力と恩寵』「解説」より)。
他方、『根をもつこと』は、生前最後の日々を過ごしたロンドンで、解放後のフランス再建のための政治・社会・文化全般に渡るガイドライン作成という委託に応えてヴェイユ自身によって著作として構想され、ヴェイユの死によって未完に終わった。
表現上の見かけの対立を両者の執筆動機の違いに還元することはできないし、ヴェイユの立場の変化という説明も説得的ではない。冨原眞弓氏は『シモーヌ・ヴェイユ』の第九章「根こぎと根づきの弁証法」の冒頭で両者を整合的に読む解釈を提示している。それを参照しつつも、私自身でこの問題を考えてみたいと思っている。