昨日の記事で引用した『根をもつこと』の原文に lieu というフランス語が出てくる。「場所」と訳すのが普通だが、ここを読むだけでは、具体的なイメージが湧きにくいかもしれない。冨原眞弓氏は岩波文庫版の『根をもつこと』のこの箇所に訳注を付している。その訳注によると、「「場所(lieu)」は「真ん中(mi)」と結びつき、人為的な国境や言語や習俗や文化をこえて拡がるアモルファスな人間的「環境(milieu)」を生みだす」。この意味での場所がそれらをこえて拡がる場合もあるだろうが、逆にそれらの広がりよりも限定された地域である場合もあるだろう。
昨日の引用のなかの最後の文にもその直後の段落にも、実際 milieu(環境)という言葉が使われている。
Les échanges d’influences entre milieux très différents ne sont pas moins indispensables que l’enracinement dans l’entourage naturel. Mais un milieu déterminé doit recevoir une influence extérieure non pas comme un apport, mais comme un stimulant qui rende sa vie propre plus intense. Il ne doit se nourrir des apports extérieurs qu’après les avoir digérés, et les individus qui le composent ne doivent les recevoir qu’à travers lui.
ことなる環境のあいだで交わされる相互の影響は、自然につむがれる人間関係への根づきとおなじく、成長には欠かせない要因である。ただし、ある環境が外部の影響をうけいれるさいにも、その影響は即効性のある養分とみなされるのではなく、自身の生命力を活性化させるための刺激とみなされるべきだ。さらには外的な養分をあらかじめ消化吸収したうえで、そこから活力を得るのでなければならない。なおかつ、環境を構成する個々の人間は自分が属する環境を介してのみ外的な養分をうけとるべきである。(冨原眞弓訳)
これは具体的にはどのようなプロセスなのだろうか。「即効性のある養分」と訳されているのは apport という単語で、この訳には訳者の解釈が明示されている。この単語は普通「貢献、寄与、供給(物)」などと訳される。具体的なものについても抽象的なものについても使われる。いずれの場合も、そのまま導入可能なもののことである。では、そのようなものとしてではなく、自身の生命を活性化させるための刺激として受け入れる(recevoir)とはどういうことなのだろうか。
例えば、こんなことだろうか。普段の食事はそのままで、そこにサプリメントをビタミンその他の栄養補給のために付け加えるのではなく、他の環境のなかで育てられた農産物その他の食物を自分の普段の食事のなかに食材の一つとして取り入れることでその養分を吸収するというようなことだろうか。
ヴェイユが同じ段落のなかで引用箇所の直後に挙げている例は、真にすぐれた画家が美術館を訪れることである。画家が他の画家の作品からインスピレーションを受けてより独創的な作品を生み出すような場合が想定されているのだろうが、これは一般人には当てはめにくい。
私たちそれぞれが属している環境とそれとは異なる外部の環境との間の影響関係については、上に挙げた例を通じてひとまず理解できるとして、私たちが同時に属している複数の環境間の影響は別の問題だ。生まれ故郷、職業生活、現在の人間関係などもそれぞれ私にとっての環境であるとすれば、それぞれの環境の中での内的養分はその他の私の環境にとっては外的な養分となる。それらの関係は複雑であり、そこには葛藤もありうるだろう。
根をもつことはそのような環境間の内的葛藤を引き受けることでもあるのだろうか。それもまた生命の糧になるのだろうか。