渡仏前のことで、しかも記憶は曖昧だから、いつとは特定できないが、少なくとも三十年くらい前から気になっている日本語がいつくかある。いや、気になる、と言うよりも、「嫌な感じ」がする日本語である。
それらの「嫌な語」の代表格が「気づき」と「学び」と「勉強になりました」である。例えば、「今回の研修では、たくさんの気づきと学びがあり、大変勉強になりました。ありがとうございました。」などという感想を聞くと、もうどうしようもなく、虫酸が走る。
暴言であることを承知で言うと、こういう表現を何の躊躇いもなく使う御仁は、男女を問わず、ほんとうは何も気づいていないし、一つも学んでもいないし、したがって、まったく勉強もしていないのである。まさにそうであるからこそ、上のような決まり文句をサラリと言ってその場をやり過ごす。
彼女彼らに聞いてみるがいい。「では、具体的に言って、どんなことに気づき、何を学び、どんな勉強になったのですか。」おそらく答えられまい。
ほんとうに何か気づいたことがあるなら、「~ということに気づきました」と具体的内容を示すべきだろう。確かに学んだことがあるなら、「~ということを学びました」とやはり具体的内容を明確にすべきだろう。その上で「勉強になりました」と締めくくるなら、まあよしとしよう。
しかし、現実には、ほとんどの場合、なんだかよくわからなかったけれど、あるいはちっとも興味がもてなかったけれど、そう言っては身も蓋もないから、相手への「リスペクト」として、内容空虚な社交辞令「タイヘンベンキョウニナリマシタ」が無自覚に乱用されているに過ぎない。
だから私は「気づき」も「学び」も決して使わない。「勉強になりました」も同様である……と言いたいところなのであるが、実は先日、つい使ってしまって、ちょっと自己嫌悪に陥ってしまったのである。
それはあるとても高名な日本のセンセイのご講演を拝聴した直後のことであった。御本人の名誉のために、いつともどこともだれとも申し上げませんが、正直、ぜ~んぜんオモシロクなかったし、専門用語のオンパレードで(いったい誰に向かって話してんだよっ)三分の一もわからなかった。やれやれ終わったわいと安堵する間もなく、悪意はないが無神経な司会者がこともあろうに私を名指しして「〇〇センセイ、いかがでしょうか」と話を振ってきたのである(その司会者に対して一瞬だが殺意を懐いたことは言うまでもない)。
「いやぁ~、あのぉ~、なんと言いましょうか、わたくしのごとき浅学非才の輩にはセンセイの深淵幽邃かつ繊細を極めた御高説は、ただただ賛嘆(惨憺ではない)の念とともに仰ぎ見ることができるばかりでございます。」となかばシドロモドロになりながら御託を並べ、よせばいいのに、最後に「タイヘンベンキョウニナリマシタ」とやっちゃったんですね。
衷心からの反省と身を切るような懺悔と峻厳な自戒の気持ちを込めて、ここに告白させていただきました。
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