内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

修士一年後期演習で三木清『人生論ノート』を再読する

2024-12-21 13:37:34 | 講義の余白から

 後期の授業開始は1月27日(月)だから、一月余り授業およびその準備から解放される。少し気が楽である。しかし、その間の試験監督と採点作業は当然の義務として、後期開始以前にやっておくべきことや準備しておくべきことを数え上げたらかなりあり、昨日の記事で話題にした理由とは別に、この休暇中はあまり心が休まりそうにない。
 まず、読んでコメントしなければならない演習レポートが30本あまり、指導中の修士論文が数本ある。
 2011年から行っている夏期集中講義の来年度のシラバスの締め切りが1月12日。
 後期、新たに担当する修士一年の「近現代文学」の演習と学部2年生の「現代文学」の講義の準備。この演習と講義は、現代文学が専門の同僚がずっと担当してきたのだが、その同僚が今年度からおそらく4年間出向で不在なので、とりあえず今年度は私が担当することになった。
 それで昨日は修士一年の演習の講読図書を何にするかあれこれ考えていた。9月以降何度か思案したことはあったのだが、決められずにいた。
 一回2時間の演習を6回、計12時間だから、そうたいした量は読ませられない。だから、本の一部のコピーでもPDF版でもよいようなものなのだが、それでは味気ない。学生たちに日本語の本を手にして読むという経験をさせたい。
 「近現代文学」といっても広い意味でとらえてよいので、文学作品や文芸批評に分野を限定する必要はない。哲学的エッセイもありである。
 ただ、一冊の本を選ぶにはいろいろと条件がある。まず、高い本を買わせるわけにはいかない。それで選択範囲はおのずと文庫か新書に限定される。価格としては800円(5€)あたりが上限。
 一冊丸ごと読ませる時間はないにしても、演習内でいくらかはまとまった量を読ませたい。だから薄めの本のほうがよい。語彙や構文があまりにも難しい本は当然却下。
 一方、私の方の事情として、上記の演習と講義以外にも今年度からの新設科目である学部2年の「仏文和訳」も後期担当するということがあり、これまでの蓄積が活かせない分、準備に時間がかかる。だから、修士の演習には、これまでの蓄積が活かすことができ、準備に時間をあまり必要としないテキストを選びたい。
 と、今日も朝からあれこれ思案した結果、過去に二回「近現代思想」の演習で学生たちと一緒に読み、全仏訳がほぼ完成している三木清の『人生論ノート』に決定した。この作品は「青空文庫」で入手できるし、それをもとに授業で使いやすいように私の方で編集したPDF版もあるから、学生たちに金銭的負担をかけなくてもいいのだが、彼(女)らには角川ソフィア文庫の紙版(2017年)を購入してもらいたいと思っている(電子書籍版もある)。ただ、いくら安価でも購入を強制することはできないので、購入諾否を問うメールを学生たちに先ほど送った。
 新潮文庫版のほうが安いのだが、現在どうやら新本は購入できないようだし、角川ソフィア文庫版には、『人生論ノート』の他に、三木の哲学の原点とも見做しうる若書きの『語られざる哲学』と一人娘洋子に宛てて書かれた感動的な文章「幼き者の為に」も収録されている(この文章については2017年12月17日の記事で取り上げている)し、岸見一郎氏による解説によって、三木の生涯にとって重要な出来事や時代背景ついて若干の知識が得られるという利点があるので、こちらの版にした。
 学生たちと一緒に再度精読することで、きっと新たな発見もあるだろうと今から期待している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


少しも嬉しくない暗鬱なノエルの休暇が始まる

2024-12-20 23:59:59 | 雑感

 今日午後の二つの試験監督を無事終え、年内業務終了。やれやれ。
 少しはホッとできるかと思っていたら、来年度募集する准教授のポストの外部審査員が思うように決まらず、冬休み中も未決定のまま、決定にこぎつけられるのが年明けになるのはほぼ避けがたく、少しも気が休まらない。こちらの努力でどうなることでもない。だから嫌なのだ、審査員長を引き受けるのは。このような心理状態を引きずるのはほんとうに身体に悪い。
 今回のポストは、同僚が研究員として日本に出向期間中に任期が限定された特殊なポストである。日本であれば「特任准教授」とでも言うのであろうが、こちらはもっと味気ないというか、身も蓋もないというか、「契約准教授」と呼ぶ。一年契約で三回まで更新可という、なんとも落ち着かないポストで、応募者からすれば魅力に乏しいだろう。その存在を知らない大学教員も少なくなく、先日パリで他大学のベテラン教授にこの話をしたら、「そんなポストがあるなんて知らなかったよ」と驚いていた。
 さらに弊学科にとって状況を悪くしているのは、来年度は日本研究分野で4つも専任准教授のポストが全国で公募される。もともと全国レベルで応募資格者がそれほど多いわけではないから、そもそもどれだけ応募があるかさえ心もとない。仮にいくつか応募があったとしても、優秀な候補者は他の専任ポストに採用され百パーセントそちらを選ぶであろうから、こちらが望むような教員を採用できる可能性はかぎりなく低い。
 あ~、考えれば考えるほど、気持ちが重く暗くなる。キラキラしたイリュミネーションで沸き立つクリスマスは、私には無縁の遠い世間の祝祭である。ひたすら暗鬱で寂しいノエルの休暇が明日から始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「この世界の中に何らか統計学と「必然性」以外のものを発見しようという希望を棄てることを欲しない人たち」― レフ・シェストフ『悲劇の哲学』と九鬼周造『偶然性の問題』より」

2024-12-19 13:17:26 | 読游摘録

 昨日話題にしたル・モンド紙の記事のうち授業で翻訳の課題対象としたのは最初の三分の一くらいで、学生たちの日本語訳はおよそ800字前後である。
 その部分の最後の一文は、 « les statistiques qui fondent les calculs des algorithmes tendent à réduire le possible au probable, et que cela est en contradiction avec la singularité de la langue, qui est une condition de toute pensée véritable. » となっている。「アルゴリズム計算の基礎となる統計データは、可能性を蓋然性に縮小する傾向があり、このことは、すべての真の思考の条件である言語の特異性と矛盾する」というほどの意味である。
 「ありうること」を過去のデータに基づいて「ありそうなこと」へと還元してしまうのが統計であり、それに基礎を置くアルゴリズム計算は、人間の真の思考の条件であるところの、これまではなかったけれども「ありうる」ことを考えるができるという言語の特性とは相容れない。筆者はそう言いたいのであろう。
 この一文で言及されている言語の特異性について、同記事の後続部分にさらに立ちった説明があるわけではないから、これ以上突っ込んでもしょうがないのだが、アルゴリズム計算は必ずしも思考の自由を妨げるわけではなく、むしろそれを基礎づけもするのであるから、このような一面的な論拠によってAIに対して人間の自由で創造的思考を擁護することは難しいと思う。
 ただ、統計データ、蓋然性、さらには必然性のみに依拠し、偶然性を排除してしまうことが思考の自由、創造的な発想、未知なるものとの邂逅へと開かれた心などを萎縮させてしまうということはあるだろう。
 九鬼周造は『偶然性の問題』の序説で、レフ・シェストフの『悲劇の哲学』なかの言葉を借りて、「我々は「この世界の中に何らか統計学と「必然性」以外のものを発見しようという希望を棄てることを欲しない人たち」に属する」と宣言している。九鬼が参照しているのは『悲劇の哲学』の仏訳(1926年)で、 その原文は « ceux qui ne veulent pas renoncer à l’espoir de découvrir dans le monde autre chose que la statistique et la « nécessité » » (Léon Chestov, La philosophie de la tragédie, Le Bruit du Temps, 2012, p. 49) となっている。
 AIがあらゆる分野を席巻する現代、「偶然性の存在論的構造と形而上学的理由とをでき得る限り開明に齎すことを願う」『偶然性の問題』は新たな光の下に読み直されるべきときなのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


AI翻訳に脅かされる翻訳家の悲痛な叫び

2024-12-18 23:59:59 | 講義の余白から

 修士2年の仏文和訳上級の最後の演習を今日オンラインで行った。これで年内の授業はすべて終了。年内に残っている職業的義務は明日と明後日の試験監督だけである。明日は、試験監督といっても、明後日の試験が仕事上の都合で受けられないたった一人の学生のための、本人からの要望に応えての特別措置である。試験時間は一時間。
 « Traductologie – niveau 3 » という科目名の今日の演習、同僚と二人で前半後半に分けて3回ずつ担当するという今年からの新しい試みであった。事前に二人でテーマについて相談し、政治・社会問題・テクノロジー・気候変動という4つのテーマを選定した。そして、同僚がそれらのテーマに関するフランス語の記事をテーマごとに複数選び、私は日本語の記事を同じように選んだ。難易度・記事の長さ等を考慮して、最終的に選ばれたテーマは、石破首相誕生の政治的経緯、ヤングケアラーの現状、AI翻訳であった。一回の演習で一つの文章を扱うという原則で選択・編集した記事を学生たちに事前に送り、翻訳を準備させた。
 今日の授業で検討したのは、今年10月24日付けのル・モンド紙に掲載されたAI翻訳に関する投稿記事で、筆者は大学でも翻訳教育に携わっているドイツ文学の翻訳家である。構文的にはさほど難しくない文章だが、日本語には馴染みにくい表現が散見され、テーマに関して日本で現によく使用されている語彙にいくらか通じていないと適語の選択がちょっと難しいという程度の難易度であった。
 事前に提出された7つの翻訳を私が授業の前にすべて添削しておく。授業では、それらの翻訳一つ一つについて、一段落ごとに、細部にわたって問題点を説明していく。それはそれで学生たちの勉強になる作業ではある。
 しかし、記事の内容そのものはあまり面白くなかった。というか、古色蒼然とした「人力」翻訳擁護論で、正直、まだこんなこと言っているのかと少し呆れてしまった。要するに、文学作品の翻訳の精神的効用論で、こんなことで現状に一石を投じたことになるとでも思っているのかというほどに黴臭い御託である。時代錯誤的な喩えで恐縮だが、敵からの空爆が繰り返される危機的な状況のなかで、竹槍訓練で心身を鍛えることの効用を説いているようなものである。
 記事のなかでも言及されているように、大学での進路に迷っている若者とその家族が翻訳業の未来に対して不安を抱いているのが現状である。そのような先の見えにくい状況にあって、「みなさん、将来どんな職業につくにしても、文学作品を機械に頼らず自力で訳す訓練には、言語能力を磨き、精神を鍛え、思考力を高めるという効用がありますよ」と言われて、大学で文学作品の翻訳に打ち込む気になる高校生やその選択に賛同する親御さんたちがどれだけいるというのか。
 文学作品の翻訳作業の効用として上記のような諸点を挙げること自体を否定するつもりはない。市場原理が席巻する現状をひたすら追認し、それに遅れないように「適応」することを金科玉条とせよとも思わない。AIに白旗を上げて降参せよと言いたいのでもない。文学作品の翻訳が完全に自動翻訳のみになってしまうこともおそらくないであろう。
 しかし、翻訳市場全体を見渡せば、生成AIの登場とその急速な普及と驚くべき質的向上が翻訳の社会的機能に空前の変化をもたらしていることは誰にも否定できないだろう。
 文学作品の翻訳が占めているのはその一部でしかなく、そこでは通用する議論を他の分野に無条件に拡張することはできない。
 翻訳に求められているものは、その利用者および市場のニーズによって可変的である。メディアの情報、広告、取扱説明書、観光ガイド、映画字幕、各種契約書、行政文書、法律文書、外交文書、政治的声明、科学雑誌、学術論文等、数え上げればきりがないが、翻訳対象となる文章の質と目的によって要求水準・内容も大きく異なってくる。
 AIが生成した翻訳は、蓋然性の高さに基礎を置くアルゴリズムの結果としての「疑似言語」であって、人間による「血の通った」創造的言語活動の成果ではない、という、上記の記事の筆者である翻訳家の悲痛な叫びは、世界を覆い尽くす情報の大洪水による喧騒によってほとんどかき消されてしまっているとしか私には思えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あるときフランス語版言語生成システムが私のなかで「おのずから」稼働し始め、今も成長と進化を続けている

2024-12-17 14:05:09 | 講義の余白から

 昨日は「日本思想史」の前期最後の授業であった。ところが、残念なことに、説明が尻切れトンボに終わってしまった。
 「おのずから」と「みずから」との関係というそれ自体かなり繊細な説明を要するテーマだったこともあるが、授業半ば、大半の学生たちが私の説明について来られなくなっていることがわかり、言葉をできるだけ易しくし、両語の用例をいくつか挙げながら、説明を繰り返したせいで、テキスト読解用に準備してきた松尾芭蕉の『笈の小文』の冒頭と九鬼周造の「人生観」(1934年)と「日本的性格」(1937年)とからの抜粋というそれぞれA4版で半頁ほどのテキストを読む時間がまったくなくなってしまった。
 そのような中途半端な形で最後の授業を終えなくてはならないことを学生たちに詫びると、先日話題にしたクラストップの女子学生がやおら手を上げて、「先生、「おのずから」と「みずから」とが協働関係にあるような具体例を一つ挙げてくれませんか」と要求してきた。実は、このような要求は想定内で、その回答は準備してあった。ただ、時計を見るとあと五分しかない。しかし、この教室の次の時限の授業は先週が試験ですでに終了しているから、教室は空いている。学生たちにちょっと授業時間を超過すると断ったうえで、その具体例として私自身のフランス語習得経験について話し始めた。
 すると、それまではちょっと途方に暮れたような顔をしていた学生たちが俄然集中して私の話に耳を傾け始めた。
 「私がフランス語を学び始めたのは、もう27歳になる年でした。」そう言っただけで学生たちは互いに顔を見合わせ少し驚いたような表情になった。たしかに、その歳で零から学び始めて私が現在一応到達しているレベルにまで上達できるケースはあまりないだろうと、これは自負している。
 もちろん発音はお世辞にも褒められたものではないし、文法的にも完璧からは程遠い。話題によっては、語彙の貧しさゆえにうまく話せないこともある。それでも、ノートやメモなしで二時間の授業をすることや、簡単なメモだけで30分の研究発表をすることや、学生や聴衆からの質問にそつなく答えることは難しくないほどにはフランス語を自由に操ることができるようになっている。
 フランス語を学び始めてから今までにすでに40年近い年月が経っているが、その半ばである決定的な変化が自分の中に起こったことがあり、それ以前とそれ以後とに自分のフランス語習得過程を分けて考えることができる。
 その変化とは次のようなものであった。その変化以前は、フランス語で話すことは、あたかもレゴを組み立てるようなもので、手持ちの語彙を文法規則に照らし合わせて組み立てる作業であった。つまり、フランス語は私の言語表現能力において外在的な位置にとどまり、そこへ毎回「みずから」アクセスする必要があった。ところが、あるときから、フランス語の文章が私の頭の中で「おのずから」生成されるようになったのだ。言い換えると、脳内にフランス語版言語生成システムが形成され、それが自動的に稼働するようになったのだ。
 つまり、「みずから」学び始めたフランス語が「おのずから」文章を生成するシステムへと私において成長したのである。「みずから」が「おのずから」を可能にしたのである。
 とはいえ、あなたたちがよく知っているように、このシステムにはまだいくつもの点で脆弱性があり、つねに安定的に稼働するわけではない。しかし、それらの脆弱性のうちのいくつかは改善可能であり、今なお進化の過程にある。まさにそのことが「みずから」フランス語を学び続ける私の意志を支えているのである。
 「私が教師としてあなたたちに望むことは、このように成長と進化を続ける言語生成システムの日本語ヴァージョンがあなたたちのなかに形成されることです」とこの説明を締めくくった。
 この話を聴き終えた学生たちの目の輝きからして、授業の失敗は十分に償われたと思う。それどころか、彼女ら彼らにちょっと早めのささやかなクリスマス・プレゼントを手渡すことができたかなと、いささかの喜びを感じながら教室を後にすることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「みずから」と「おのずから」の接点を求めて ―『方丈記』の「一間の庵、みづからこれを愛す」を起点として(下)

2024-12-16 00:57:20 | 哲学

 古典的名著のなかの瑕瑾を血眼になって探し出して悦に入るような詮無き気晴らしがここでの目的ではない。
 偶然性の問題を考察するにあたって「おのづから」という副詞が一つの重要な概念になりうることは確かである。だが、13日の記事でも言及したように、この副詞は取り扱いに注意を要する。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)によると、「オノは、代名詞のオノ(己)。ツは、上代に用いられた、体言と体言とを関係づける連体格の格助詞。カラは「族・柄」で、生まれつきの意。よって、物事がもともとのそのままが原義。そこから、ひとりでに、たまたま、万一などの意が派生する。」
 昨日の記事に引用した『方丈記』の一節のなかで「おのづから」は「たまたま」という派生義で使われている。ところが、今月12日の記事で同じく『方丈記』から引用した「暁の雨は、おのづから、木の葉吹く嵐に似たり」のなかの「おのづから」は「たまたま」ではない。現代の注釈書では「自然と」と訳されていることが多い。
 しかし、この「自然と」とはどういうことか。「なんとなく」という訳を当てている注釈書もある。いずれにしてもこれらの訳語だけではこの文での「おのづから」のニュアンスがいまひとつよく捉えられない。
 ひとつ言えそうなことは、主体の意思・作為の不介入ということである。つまり、感じる主体である長明の心において、何ら長明「自ら」の考えも意図も介入することなく、「暁の雨」と「木の葉吹く嵐」との類似性がそれとして感受された、ということである。フランス語で長明のこの経験を言い表せば、 « cette ressemblance s’éprouve ainsi en moi. » とでもなろうか。一言で言えば、「ひとりでに事が成る」ということである。その成り様が「おのずから」である。
 もうひとつ言えそうなことは、この「おのずから」は「必ず」ではない、必然性ではない、ということである。上掲の例に即して言えば、両者の類似性は必然的ではなく、かといって恣意的でもない。ある事・経験が一旦起動されてしまえば必然に従う(あるいはそう見える・思われる)が、その事の起動自体は必然に属していない。このような偶発事を起点とした準必然的な経験の様態を事の起動後に言い表すときに「おのずから」という言葉が使われる。つまり、事が一旦成立した後に、その事はそうなる他はなかったのだと認証するとき「おのずから」と言われる。
 こう考えてよければ、「おのずから」と「みずから」の接点が「おのずと」見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「みずから」と「おのずから」の接点を求めて ―『方丈記』の「一間の庵、みづからこれを愛す」を起点として(上)

2024-12-15 08:16:06 | 哲学

 日本の古典文学作品からある語の用例を挙げて、その語釈を根拠に議論を展開する。これは授業や論文で私もよく使う手段である。これによって議論に一定の説得性をもたせることができる。が、当該の古典作品の専門家による注解をちゃんと読み込んでから実行しないと、思わぬところで足を踏みはずしかねない。
 古今東西の古典から自在に引用して絢爛豪華な議論を披露なさる著作家や教授先生方もいらっしゃるが(誰のことか、皆様適当にご想像ください)、そのきらびやかさに目が眩んで、その議論に含まれた牽強付会やアナクロニズムが見えなくなってしまうことがある。いや、書いている本人自身それに気づいていないこともある。
 出だしがちょっと大げさになりすぎた。言いたいことは、もっと小さな、しかし、大事なことである。
 九鬼周造の『偶然性の問題』(1935年)が第一級の哲学書であることを讃嘆の念とともに認めたうえでのことだが、同書での古語の語釈にはときにかなり初歩的な誤りが見られ、その引用が少しも立論の根拠になっていないことがあるのをかねてから残念に思っていた。
 一例を挙げる。
 第二章「仮説的偶然」一二「因果的消極的偶然」で九鬼は『方丈記』の次の一節を引用している。

今さびしきすまひ、一間のいほり、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞匃となれる事を恥づといへども、かへりてここにをる時は他の俗塵に馳する事をあはれむ。

 この引用中の「おのづから」に注して、「自然」を意味し、「その結果としてかえって因果的偶然に対立する」と九鬼は言っているが、これは誤りである。この「おのづから」はまさに「たまたま、偶然」という意味で使われている。「みづから」と「おのづから」が近接して使われているから両者の語義を対比的に示すのに好都合な箇所だとでも思ったのだろう。しかし、この節での九鬼自身の立論のためにこの引用はまったく必要ない。たとえこうした初歩的な誤りは論脈のなかでは瑕瑾に過ぎないと片づけられるとしても、当の古典作品に対して礼を失した態度だと私は感じる。
 「やめときゃよかったのに」の感なしとしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


修士2年の演習でフランスと日本におけるヤングケアラーの問題を取り上げる

2024-12-14 17:35:40 | 講義の余白から

 前期もあと一週間で終わり。担当するすべての授業の準備を今日終えた。筆記試験を課す学部の二つの授業の試験問題の作成も終え、印刷の発注も済ませた。ホッとする。心身が軽い。
 しかし、授業外では、来年度准教授新任採用の審査委員長という、正直すご~く苦手な責務を引き受けざるを得ず、ノエルの休暇中もそのことで気を揉まなくてはならない。こっちは、ほんと、気が、オモ~いでがんす。
 来週月曜日から期末試験が始まる。私の担当する学部の二つの授業のうち、応用言語学科一年生向けの「日本文明入門」の試験は来週金曜日に行われる。当初は来年1月13日(月)に予定されていたのだが、年内に試験を受けたいという学生たちの希望を入れて、ノエルの休暇前の最終日である金曜日の最後の時間枠に変更した。
 もう一つの学部の担当授業である日本学科三年生向けの「日本思想史」の試験は1月13日に行われる。この試験についても年内か年明けか学生たちに希望調査をした。こちらは年明けを希望する学生が過半数を占めた。賢明な選択である。超弩級の難問4題、ぶち込んでおいたからね、しっかり時間をかけて準備してくれたまえ、諸君、フフフ。
 修士の3つの演習のうち、2つは今週が年内最終回だった。残るは修士2年の仏文和訳上級の2コマ。月曜日に教室で1コマ。水曜日にオンラインで1コマ。これで前期の授業はすべて終了となる。
 月曜日の演習では、フランスのヤングケアラーの問題を取り上げたル・モンド紙の記事の和訳を検討する。演習に参加している7人の学生には演習前日までに翻訳を提出するように指示してある。今のところ3名提出。すでに添削済み。内容的に易しい文章なので、翻訳として検討が必要なところもあまりない。残り4人の翻訳の添削も簡単に済むだろう。だから、月曜日の演習、翻訳に関する問題については実は話すことがあまりない。時間が大幅にあまりそうである。
 で、修士一年の前期の演習で取り上げた日本のヤングケアラーについての次の三つの著作を紹介することにした。澁谷智子『ヤングケアラー 介護を担う子供・若者の現実』(中公新書、2018年)、同著者による『ヤングケアラーってなんだろう』(ちくまプリマー新書、2022年)、村上靖彦『ヤングケアラーとは誰か 家族を〝気づかう〟子どもたちの孤立』(朝日新聞出版、2022年)。いずれもわかりやすい日本語で書かれているので、修士2年なら予習なしでも読ませることができる。
 それでも時間が余ったら、村上氏の本の第4章に紹介されているコーダ(CODA=Children of Deaf Adults)について話す。それでも時間が残ったら、丸山正樹の『デフ・ヴォイス』(文藝春秋社、2011年、文春文庫、2015年、創元推理文庫、2024年)を紹介し、とどめとして、昨年末にNHKで放映されたドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』の一部を視聴させる。このドラマについては、今年1月21日の記事でちょっとだけ言及した。いいドラマですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「おのずから」の取り扱いにはご用心を

2024-12-13 23:59:59 | 日本語について

 「日本思想史」の授業で「おのずから」と「みずから」というテーマを扱うにあたって、いろいろな現代文から両語の用例採集をしていてのさしあたりの感想に過ぎないのですが(言い換えれば、付け焼き刃の採集に過ぎず、多分に偏りがありそうなのですが)、「みずから」の用例はあまりおもしろくない、というか、「自分」「自分の」「自分から(進んで)」と置き換えられる例が圧倒的に多くて、「みずから」という言葉を使わなくては伝わらないニュアンスというものがあまり感じられませんでした。
 それに対して、「おのずから」のほうは、自然とそうなるとか、事の成り行き上そうなるとか、当然そういうことになるとかの意味で使われるので、使っている本人の思考回路が、おそらく本人もあまり意識していないところで、端的に現れるところの指標のひとつになると思われました。もっとあけすけに言い換えると、「おのずから」が使われているところは、実は論理的な帰結ではないことがむしろ多いということです。
 ご本人の論説全体を批判の俎上に乗せることがここでの目的ではないので、著者名も著作名も伏せて一例を以下に引きます。

こうした小国思想と社会的な均質性、それに教育の普及と、強力な英雄の不在という特質が加われば、そこからおのずから出て来る答えは「大衆社会」の形成ということになるほかはありません。

 これはまったく論理的な帰結ではなく、歴史上の事実としてそうみなされているという前提が先にあって、そこから時間的に遡ってそのような帰結を導いてくれそうな歴史的条件を並べ立てているに過ぎません。この手の「おのずから」の用例を現代文のなかに見つけることは実に容易であるばかりでなく、それらを読んでいると腹が立ってくるので一例のみとします。
 かなり乱暴な話であること(いつものことじゃんと小声で言っているのは誰ですか!)を承知で言うと、「おのずから」を使っている文章の大半の「論理」はこれに尽きます。つまり、実のところは少しも論理的ではなく、すでに得られている結果に対して、さもありそうな前提を鬼の首でもとったかのように並べ立てているに過ぎないのです。その前提がちょっと物珍しかったり、その並べ方に少し気が利いていたりすると、「おのずから」世間の喝采を浴びることができるようです。
 ほんとうの「おのずから」は慎重に取り扱わないと、思わぬところで足払いを食らうことになりそうです。もって自戒(「自壊」、じゃあないですよ。最初の変換候補がこれなんだもん)といたしまする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「もし、歩くべき事あれば、みづから歩む」―『方丈記』より

2024-12-12 17:06:40 | 講義の余白から

 「日本思想史」の授業で「数奇」と「すさび(荒び・遊び)」の話を唐木順三の『中世の文学』に依拠しながら説明したとき、同書には『徒然草』からの引用や参照箇所はいくつもあるので、『徒然草』の原文に触れさせる機会はあった。長明のほうは、唐木書で参照した箇所には『発心集』からの引用はあっても『方丈記』からの引用はなく、前者の原文はピジョー先生の仏訳と共にニ箇所引用したが、後者には触れる時間がなかったことを少し残念に思っていた。
 そこで、「おのずから」と「みずから」をテーマとする最後の授業でこのニ語の用例を『方丈記』から取ることにした。どちらもごく短い文で、古典文法の初歩しか習っていない学部生でも、仏訳に頼ることなく容易に理解できる。

暁の雨は、おのづから、木の葉吹く嵐に似たり。

もし、歩くべき事あれば、みづから歩む。

 『徒然草』からもそれぞれ一例を挙げる。

よき人の物語するは、人あまたあれど、ひとりに向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ。

一道にまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物にほこることなし。

 古典文学も古典文法も同僚が専門家として同学年で担当しているので、私の授業ではあくまで思想史の一齣として取り上げたテーマの枠組みのなかで古典文学作品に言及するだけだが、それがきっかけで学生たちが『方丈記』や『徒然草』に関心をもってくれれば嬉しい。