こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

冬の100曲:Japan「My New Career」1980

2024-12-15 21:20:00 | 音楽帳

晴れがずいぶんと続いていた。まっさおな青空が美しく、そこに映える紅葉も美しい日々が続いた。しかし、その紅葉ははらはらと散り終えつつある。落ち葉は乾いて、カラカラと木枯らしのなか舞っている。陽の長さは日に日に短くなり、あと一週間程度の冬至に向かって傾いていく。
金曜は長らく続いた連続晴天から一転して、真っ白い曇り空になった。もう冬だろう。その日に感じた。
そして、金曜曇りを挟み、昨日も今日もまた絶好の晴れとなった。

こんな日々が続く中、朝の布団を離れるのは9時から10時のあいだ、という具合。別に寒いからじゃない。晴れた日はせっかくの日光なのにと思うのだが、半世紀以上朝は苦手。立ち上がりの悪さやふらふら感は変わりない。
長らく「はぐれ刑事純情派」の再放送(今は1994年第7シリーズ)を9時から見ることを楽しみにしてきたが、昨年以降2巡目に入り気力落ちた為に9時前に起きる必死さが無い。理由はほかにもあるが、TVは無理矢理な動機付けには格好の材料だが。。
歯磨き、湯沸かし等々の雑事終わってTV付ける頃にはじゅん散歩〜おおしたさんの番組の流れになる。
別に寝坊でも何でも無い。ネコのことなら彼らの要望に応じて、深夜から明け方も含め24時間対応はしている。外用事は午後から済ませるだけのことだ。

この12月某日で、ドクターストップがかかってから丸5年をむかえた。まさか、と思う。驚くべき時間の速さ、人生の短さを痛感する。
この5年のあいだに、コロナ禍を通過、仕事は休職を経てがたがたやり合いの末に時間切れの形になった。その後、一生に一回の転期と考えた。カネの為に身を削り、我慢辛抱して奴隷として働くという日本人的労働観を捨て、残る時間はそれまでと違う新しい生き方をしようと決めた。

しかし、そうは言ってもやはりカネが一文無しでは生きていけない。四苦八苦しながらさまざまな取り組みをしている。
だが、つくづく今の日本社会は、会社員中心に出来ていて、社会的手続きや所属員への優遇など、会社に属している人のメリットだらけ←/→社畜的奴隷制度から脱してもデメリットだらけ。それでも、もうカネだけのために生きる無様な生き方はしたくないので、この病んだサークルの外側にいま私は居る。

かつて会社に寄生してはチューチューチューチューあらゆるカネ目のものを吸い取り、社内外に毒をまき、依存的生き方をしていた連中の、愚劣でえげつない化け物顔がときおり浮かぶ。。。彼らはたんまりカネを得て、さぞご満悦だろう。

***

何はともあれ、かつて居た場所を離れ、自分は見知らぬ飛び出た場所にいる。私は新しい生き方、新しい道の上にいる。もう後ろに戻る道は無いし、戻らない。それは格好つけてるわけでも突っ張ってるわけでもなく、事実なのである。

ココロには中学三年生15歳の自分が、暴風の中新しい道へ歩き出したときの姿が浮かぶ。決してその後の道がハッピーエンドに向かったわけではない。むしろその反対だが、それでもなんとか難局を超えて生きていくことを選んできた。

15歳の頃、すり減る程に聴き込んだJAPANのアルバム「孤独な影」。孤独な中、周りのしがらみに翻弄され腐りながらも、自らが思う道を歩こうとするデヴィッド・シルヴィアンの姿が自分を後押ししていた。全曲あり得ない完璧さをもっているが、最近またこの曲(マイ・ニュー・キャリア)を聴いている。
このアルバムとの出会いから約43年。心の深い深いところに届く数少ないこのアルバムから、多くの励ましを得てきた。 JAPANは私にとって唯一無二の存在。特にこのアルバムは、この後も一生を通じて聴くことになるだろう。

 

■Japan「My New Career」1980  (Old Grey Whistle Test, Dec. 1980)■

ひとりきりになりたいなんて
思ったことはなかったくせに
とにかく僕はそっと家を抜け出して
ここまで来てしまったんだ

南に住む人々は
些細な人生の浮き沈みを繰り返しながら
まっすぐ前を向いて歩いてる
確かな足どりで

彼等が僕たちの唄をうたってる
外の人々には何も聞こえないけれど
彼等が僕たちのうたをうたってる
僕の新しい人生のはじまりに

やっと気づいたんだ
違う生き方もあるということに
船が港に着くたびに
出発の時はやってくるのだから

南へ行けと彼等は言うよ
太陽は僕の町には沈まない
僕を物憂い気分にさせるのは
この熱風の中の疾走

僕は誰ひとり傷つけたりしていない
ことに 君を傷つけるような真似は

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秋の100曲:ペイル・コクーン「青空の実験室」1982

2024-12-10 21:20:00 | 音楽帳

昨日朝、おおしたようこさんの番組見てたら”いよいよ冬本番”と言っていた。初霜、初氷となり、例年より14日早いんだとか。
今年は猛暑のせいですべてが季節遅れだったが、いきなり逆転したらしい。
私の中ではまだ晩秋だったんだけど、、そして「まだ秋」と言ってふんばりたいけど。。もう冬の到来を認めねばならないのかもしれない。

***

秋と冬の境目はどこなのだろうか?などとずっと考えていた。試しに家人に質問してみたら、そんなこと考えたこともない。ずいぶんと小さなことを相変わらずぐるぐる考えてるんだね、といなされた。そうだ、私はこの手のことをふだん四六時中考えている。

秋と冬の境目を「月」でわけて考えるのが気象庁で、11月までか秋、12から2月が冬としているらしい。あるいは、冬至から春分までを冬とする考え方もある。
自分としては、やっとおとずれた紅葉が散って、裸の木立ちがあらわれ出したら冬、としたい気分。
そうしたら、この数日で美しい葉々がはらはら散り出した。やっぱり冬がもう来たのかもしれない。。手足などの末端を中心に冷え性だから用心してきたが、、「今年は大丈夫だよ」と無意識に自分に言ってきたが、むしろ例年以上に気をつけねばならないのかもしれない。

***

そんな寒い中、音楽を聴きながら、土、日、1日空けて火曜とチャリンコを走らせ、紅葉が散り行くさまを見てきた。
最近取り出したのはペイル・コクーンの4曲入りミニアルバム「青空の実験室」。(「取り出した」と言ってもiTunesに入れたものだけど。)

このアルバムを知ったのは、雑誌フールズ・メイト1983年師走号に載ったパフェレコードの広告。アルバムリリースは1982年だそうで、翌年の紹介広告だった。これ以外でも雑誌でアルバムのモノクロームなジャケットを見たことはあり、興味は猛烈にあったが実態不明なまま40年経過。中身を聴いたのは、ここ数年のことだった。カラーの色付きジャケットを見たのは、かつて神保町にあったジャニスの店内かもしれない。日焼けしたかのような色味のカラー写真がさらにそそられる。
のちに発売されたレコードに写るメンバー2人は太ももあらわな短パン、ベレー帽姿で、まるで少年探偵団の小林少年を模していたので。。。聴く前の想像は、外界と切り離れた小学生たちの秘めた小宇宙を思い浮かべていた。その後実際に聴いた後も、そのイメージや印象に違いはなかった。

80年代初頭、みんな自宅でラジカセ等を相手に音に関するさまざまな実験を行っていた。私もそんな子供の1人で、マイクでいろんな音を録音したり、ループさせたり重ねたり・・。帰宅から母親に「夕ご飯だよ」と声を掛けられるまでのあいだ、全く生産性とは関係のない、無縁な実験行為に浸っていた。私はいわゆるそんな”デモテープ世代”であって、教授のサウンドストリートでデモテープ特集が組まれる前後の時代 夢中になっていた。
この4曲入りミニアルバムも、そんなデモテープ世界と地続きで、アナログな楽器類で構成されたくぐもった音の世界。ボリュームを上げて聴くと外気の音や見知らぬ人の声、ざわめきなんかも聞こえてくる。師走のゆらめく風景にマッチする。

 

■ペイル・コクーン「青空の実験室」1982■

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秋の100曲:鈴木さえ子「朝のマリンバ 」1983

2024-12-07 14:30:00 | 音楽帳

幼い頃から、十代、二十代、その後、と闇のなかを歩いてきた。
たとえば、高校を何とか出たところで、自分は2年も無職・浪人のときを過ごしていた。そのときには、日々悩みさまよいながら、自分が身を置ける場所がどこにもなかった。カネもなく、安堵できる家や場所も無いから、野外をほつきあるいていた。そんなにも苦しくて現実に身を置けない時代に、自分はいわば家出状態だったのだ。野外で持ち歩ける音楽プレイヤーなども無かった。そんなときには、カラダが勝手に作り出した脳内プレイヤーが活躍した。脳内の想像だけで音楽を再生し、そこに浸るというワザを身につけた。

あれからもう数十年が経った。今ではすぐれたモバイルプレイヤーがある。大してカネを持たない自分でも買えるくらいに安いものが手に入る。
でもいまだに苦しいココロを抱えて生きるのは変わらないから、持ち歩けるラジオとかプレイヤーは毎日欠かせない。毎晩眠れないから、寝る時もイヤホンをして別の世界に身をひたす。そうしないと、味気ない現実に身を侵蝕されて、生きたまま白痴になってしまうようだから。

***

”シネマ”ではなく”B-2ユニッツ”でその演奏に初めて出会った鈴木さえ子のソロデビュー作「毎日がクリスマスだったら(I wish it could be Christmas everyday)」は、少女的とも少年的ともいえるかわいらしい世界。
少年的とは、慶一氏が共同制作者だから、たぶんそれがにじみ出てきているのだろう。ほとんどの曲を二人で作っていて、二人のウエディングアルバムともいえる。

このアルバムに収録された曲には好きなものが多い。その中の1曲がアルバムB面最後に入った「朝のマリンバ」。
(歌詞はあるものの)”ほぼ”インストゥルメンタルな曲で、その雰囲気は晩秋にぴったり。この曲の数行の詞は慶一氏のもの。作曲はさえ子ちゃんになっている。
チャイムの音が印象的な曲で、これを掛けてイチョウ並木の下を歩きたい、と1983年からずーっと思ってきた。

《鐘の鳴る秋向きの曲は、いくつかあるけど。。》
できるなら、曲のアタマとお尻をうまく繋げてエンドレスで聴きたい。
先程の話に戻れば、こんな曲を周りの雑音が聞こえなくなるくらいの音量でイヤホンで聴きたい。
エンドレスに鳴り続ける音の世界にどっぷり浸り、鬱に落ちていくココロから飛び出して行きたい。

よく読書家や文学者の方のお話しで、読書で本の世界に入り込んでいるときだけは生きていてもいいと思う、といった話しを聞くことが最近特に多い。そして、この手の話しには、死んでしまいたい気分が毎日基本だが・・という補足が付くことが多い。
その話しにすごく共鳴するし、よくわかる。私もおおよそそんな状況だ。

 

■鈴木さえ子「朝のマリンバ 」1983■

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秋の100曲:Nick Heyward「Café Canada」1983

2024-11-30 22:40:00 | 音楽帳

この曲を初めて聴いたのは「教授(坂本龍一)のサウンドストリート」1983年8月30日の放送回でのこと。ゲストは鈴木慶一さんandさえ子ちゃん。
そのときは2人が結婚することになった頃で、慶一氏が手伝った さえ子ちゃんのソロアルバム「毎日がクリスマスだったら」の紹介回だった。アルバム紹介の合間・ティーブレイクとしてこの曲「Café Canada」が掛かった。

1981年4月に始まった「坂本龍一のサウンドストリート」も、毎週一秒も聴き逃すまいと切迫感を持って毎週大事に聴いていた時代を過ぎ、 1983年ともなるとすっかり中だるみして、カセットテープに録音して満足して済ませていた回も多かった。しかし、この回は掛かる音楽・会話ともに面白く深かったので、何回もこのテープを聴いていた。1983年夏の終わりの番組を、秋から冬になっても繰り返し聴いていた。以来「Café Canada」は毎年秋になると必ず聴いている。

***

「Café Canada」はイギリス現地発売のシングル「Take That Situation」のB面に収録されている。最近ではファーストソロアルバム「風のミラクル」CDのボーナストラックに収録されている。

サウンドストリートでは、お気に入りレコード探しを巡る会話が楽しかった。教授は某パイドパイパー・・でたんまり新譜レコードを買っていたが、仕事が忙しくてなかなか聴く時間がない。ひたすら膨大な枚数聴いてないレコードが溜まっていく中、一枚でも聴いてみようという気持ちになるきっかけは、「誰それがアレが良かった、と言っていた」という仲間の情報だ、と言う。
一方、新譜好きの慶一氏の方はといえば、さえ子ちゃんが代わりに聴いて「アレが良かった/これはあんまりよく無かった」と仕分けして教えてあげてると言う。そんなデレデレの会話につい教授は「早くも内助の功かよ」と小さくキレた。
この頃、この夫婦の仲睦まじい感じはイヤミがなく楽しそうだった。。(慶一・さえ子夫婦はうまくいくんじゃないかな、と自分は思っていたけど。。。)

ニック・ヘイワードは、ヘアカット100がヒットした途端にいきなり脱退して、当時えらく驚いたもの。/ソロになって一枚目のシングル「Whistle Down The Wind」のスローなテンポの魅力。/その後、一枚一枚シングルカットを繰り出して、その末にファーストソロアルバムを作った流れ。/幸宏がオールナイトニッポンでそのシングル曲を掛け続けてくれたこと。/同じく幸宏がアルバムのライナーノーツを書いていたこと。/・・・などと芋づる式にさまざま思い出す。

今年は猛暑・異常気象を引きずり秋のおとずれや紅葉も遅くなったが、やっとこの曲が似合う季節になった。

■Nick Heyward「Café Canada」1983■

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秋の100曲:Janis Ian「Will You Dance?」1977

2024-11-26 22:20:00 | 音楽帳

昨日朝、テレビの番組表をながめて、とある意外な番組を発見。すぐにチャンネルを合わせた。
その番組は山田太一さん脚本のドラマ「岸辺のアルバム」。
1977年(昭和52年)の作品だったんだなあ・・・といまさら思う。その1回目の始まりに偶然立ち会えた。こんなめぐり合わせを逃してはならない。。。
でもリハビリ仕事に行かねばならず。。。途中まで見て、そこから録画に切り替えて外に出た。

一日経ち、今朝ドラマの続きをゆっくり観た。
とても懐かしくいとおしい時代、70年代の匂いが充満する。でも、ただのなつかしさとかノスタルジーではない何か。。。
山田太一さん作品では、未だに小学生の頃に観た「男たちの旅路」(1976年・昭和51年~)がココロに深く刺さっている。

そして、当時想像もしなかった時代・2024年に、再び1977年の「岸辺のアルバム」を改めて観ている。
自分が生まれたのは60年代後半。そんな子供が意識を持って歩き出した子供時代は70年代。
身の回りの生活が次第に豊かになっていく一方、次第に沈没に向けて傾いていく予感。それがこのドラマには漂っている。

このとき46歳だった八千草薫さんが、いつもながら上品でかわいい。
八千草さんは、桃井かおりさんが主人公のドラマ「ちょっとマイウェイ」(1979年・昭和54年)におねえちゃん役で出ていた、その印象がとても強い。
おっとりしておっちょこちょいだけど、いつも桃井かおりを見守っているおねえちゃん。でも、いつも桃井かおりにクチで言い負ける。
その様があんまりにもかわいくて、大好きだった。(当然、ドラマ自体も桃井さんも大好きだった。)

***

今生きている2024年。この時代・今の世界にどうも愛着が持てない。とんでもない場違いな時代に生きている、という感覚がする。
自分はまるで浦島太郎みたいだな、という感覚に包まれる時がある。
よくトカトントンと音がしては浦島太郎になる。

そんな時代の中で見るこのドラマ。何がどう、という理屈ではなく、離れがたいいとおしい想いになり、言葉を失う。
幼い頃からよく過去を振りむいては、その過去への愛着を抱いて何とか今を生きてきた。
その愛着が今を生きる阻害要因となっているのかもしれない。と愛着を捨て去ろうとした時期もあった。

まだドラマは始まったばかり。これからまた色んなことを想い出したり考えたりしながら、見ていくんだろう。
うまく言えないけれども、いま不思議な感覚に包まれている。

■Janis Ian「Will You Dance?」1977■

ちる坊はテレビ画面前でじゃまをする。

今夜のスカイツリー。

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