
敗戦後の日本では、自分で自分を律するマックス・ウェーバー 流の近代的な主体を形成しようとしてきました。だが、高度経済成長が終わって、そんな理念はどうでもいいではないか、ということになった。
神道的であれ、仏教的であれ、ある種の「場」の中に、前主体的な形で 包み込まれている方がいい、という日本古来の共同的心性も復活してきた。
加えて、現代のテクノロジーは、ほぼ万能のブラックボックスで、 原理は分からなくても欲望を満たしてくれる。
壊れても回路ごと取り換えられる。
そんなテクノロジーのシステム全体が、一種母性的な構造を 作っていて、ユーザーは幼児的段階のままそれに依存していられる。
これは日本に限らず、普遍的です。
ですから、現代はいわゆる主体形成なしの、バラバラの個が浮遊するようになったという印象が強いんですね。
一般論として、近代とは、恐るべき終わりを予期しながら、常にそれを先送りすることによって均衡を保つプロセスです。
世界の終わりの日が分かっていたなら、だれもその日には紙幣を受け取らない。
だから、その前日も、いや、巡り巡って今日も、受け取らない。
必ず明日があるという前提のもとで、最終的決算、つまり恐慌を繰り延べていくのが資本主義です。