今、自分は過去持っていたモノを捨て去り、黒のスーツしか日常着ない。
仕事入りたての頃は、「バブリーなイメージ」の魚のころものようなテカテカスーツを着た者が多かったが、そういう連中と一緒になるのを嫌い、反感剥き出しにJプレスの高価なジャケット&スラックスで通した。
寺山修司のエッセイの「1点豪華主義で生きろ」という文章にシビれた。
カネが無い貧しい社会には、何かを得るためには、何かを捨てて、1つに収斂セヨ、というコトバ。
自分は社会側が規定・認識する「さらりーまん」であるにもかかわらず「さらりーまん」という言葉自体が大嫌いで、そういう意識も持たない。
自分には背負う家族は1人も居ない。
孤として生きざるをえない。
スーツを着ているから=さらりーまんとは短絡。
自分がスーツに憧れたのは、「早くオトナになりたい」と願った中高生の頃。
JAPAN4人がスーツ姿であったかっこよさ、1982年ツアーをし始めた幸宏バンド全員のスーツ姿(おしゃれな幸宏は当然の事、ビル・ネルソンが特にかっこよかった)、ブライアン・フェリーのダンディズムがあまりにかっこよ過ぎて「あんな風にスーツの似合うようになりたい」という願望。
どんな心中が苦しくとも、クールで汗を感じさせないこと。
恩師たちから学んだオトコの在り方。
スーツと給与者は無縁であり、どんな経済面で貧困であっても、突っ張ってでも如何にかっこよくあるかが重要だった。
未だに、様々なアンケートや書類の「職業欄」に自分は適当な事を書く。
「自由人」とか「孤独者」とか「放浪者」とか「反日撲滅運動家」とか「地下生活者」とか。。。。。
全部否定される覚えの無い自分だから間違いでは無い。
それは、今社会側が規定する各々が置かれた状況そのものではなく、人間みな描く「私はここに居る」という自己証明とプライドと結びついている。
■Bryan Ferry 「Kiss And Tell」■